アブラハムの旅
ジェイコブ・プラッシュ
創世記 12 章を開いてください。ヘブライ語では創世記を“ベレシート(はじめに)”といい
ます。これはイエスが生まれる約 2166 年前の話です。
主はアブラムに仰せられた。
(彼の名はまだアブラハムではなく、アブラムでした)
『「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』
『アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。アブラムは妻のサライと、』
サライとはヘブライ語で“わが王妃”という意味です
『おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、ハランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。』
『さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在す
るために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。彼はエジプトに近づき、そこに入ろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。どうか、私の妹だと言ってくれ。』
実際にサラはアブラハムと異母兄妹でした
『そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのび るだろう。」アブラムがエジプトに入って行くと、エジプト人は、その女が非常に美し いのを見た。パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの 宮廷に召し入れられた。パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラ ムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するように なった。しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛 めつけた。そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何とい うことをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。なぜ彼女 があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しか し、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。』
『それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべ ての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでい た。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、初めに 天幕を張った所まで来た。そこは彼が以前に築いた祭壇の場所である。その所でアブラ ムは、主の御名によって祈った。アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや 牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そ のうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。』
『そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上
げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったの
で、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、 東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。』(創世記 12 章1節-13 章 11 節)
それはハラン以前に始まった
聖書の中には、旧約聖書に記されなかったけれども、古代ユダヤ人には知られており後に新約聖書に書かれたことがあります。使徒の 7 章でステパノが殉教を遂げる前に行った弁明の中で創世記には記されていなかったことがふれられています。
『兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父アブラハムが、ハランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け』と言われました。そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、ハランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、』(使徒 7 章 2 節-4節)
使徒の働きは、まだアブラハムがメソポタミヤ――カルデヤのウルにいるときに彼が召されたと教えています。創世記はそれからかなりたったハランでのことを書いているのです。
アブラハムはすべて信じる者の父です――ユダヤ人やアラブ人、イスラム教徒でさえアブラハムを尊敬します。アブラハムはアラブ人には“イブラヒム”と呼ばれ、ユダヤ人には
“アッバ・アブラハム(父なるアブラハム)”と呼ばれます。“すべて信じる者の父”とは
神学的に彼がすべての人の原型であるということです。アブラハムの経験は彼の子孫に起
こることの予型なのです。
エジプトの象徴
“エジプトを出ること”を理解しましょう。ききんのときアブラハムはエジプトへ下ってそこに滞在しました。神はパロをさばき、アブラハムはエジプトを出てイスラエルに入りました。後にその子孫ヤコブの子どもたちはききんのとき、エジプトへ下り神のさばきが頑ななパロのもとに下りました。このようにアブラハムの子孫はアブラハムと同じことをしたのです。つまり、彼らはエジプトを出るときにエジプトの富を携えてイスラエルに入りました。アブラハムに起こったことは、その血がつながっているユダヤ人にも起こるのです。
1 コリントの手紙でパウロはそれが私たちにも起こることだと教えています。エジプトは この世の象徴であり、約束の地は天の象徴です。またモーセが民に血を振りかけて契約を 結び、紅海を通って民を約束の地に導いたことは、イエスが私たちをこの世から導き出し、バプテスマを通して天に導くのと同じことです。(1 コリント 10 章)私たちはエジプトか ら出てきました。パロはもちろん悪魔の象徴であり、この世の神、またやがて来る反キリ ストを最もよく象徴する者のひとりです。アブラハムはエジプトを出て、その子孫である ユダヤ人もエジプトを出ました。そしてアブラハムがすべて信じる者の父であるために、 私たちの救いもエジプトを出ることなのです。
さて、次の節に多くの人が疑問を持ちます。特にリベラルな神学者たちがそうです。
『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』(マタイ 2 章 15 節)
ヘロデ王が死んだときこの言葉が引用されました。マタイは預言者ホセアの書 11 章 1 節か ら引用しました。しかし、そこでホセアはユダヤ人の出エジプトのことを語っていました。マタイはどうしてユダヤ人の出エジプトの文脈をイエスに当てはめたのでしょう?
それはヘブライ的な理解では預言は“パターン”だからです。アブラハムはエジプトを出、ユダヤ人はエジプトを出、私たちもエジプトを出たので、アブラハムの子孫であるイエスもエジプトから出なければならないのです。こうしてイエスはパターンを成就しました。神は再び邪悪な王であるヘロデをさばき、アブラハムの特徴を備えた子孫であるイエスもエジプトを出ました。ヘブライ人の預言はパターンです。エジプトを出ることの最終的な
意味は教会の携挙と復活です。出エジプトでなされたエジプトへの暗やみや血などのさば
きは黙示録で再現されています。また、パロがモーセとアロンの奇跡を真似たのは、反キリストとにせ預言者がイエスとその証人の奇跡を真似るのと同じことなのです。
ヤコブの子孫たちはエジプトを出るときにヨセフの骨を約束の地に携え上りました。なぜならキリストにある死者が最初によみがえるからです(1 テサロニケ 4 章 13 節-17 節)。私たちはエジプトから共に出ていきます。これは復活の象徴であり、それこそがエジプトを出ることの最終的な意味です。ヘブライ的な預言はいつもパターンであり、複数の成就があります。しかし、それぞれの成就は最終的な成就の象徴であり型でもあります。これはアブラハムについても真実です。彼の経験はユダヤ人と信者たちによって再現されました。私たちはエジプトから出るのです。
アブラハムへの契約
神はアブラハムへ 5 つの契約を与えられました
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アブラハムの名を偉大なものとすること(これは確かに起こったことです)
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彼にその地を与えること(これも起こっています)
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彼を国民とすること(これも起こっています)
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神はまたアブラハムを祝福する者を祝福することを約束されました。これは後にヤコブ、アブラハムの子孫へと継承されました。
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神はアブラハムとその子孫をのろう者をのろうと言われました(これはいつでも起こってきました)
二つの要因のために、ずっと昔に下るはずだった神の裁きはアメリカに下りませんでした。ひとつは、奉仕や伝道、慈善活動などに使われているドル全体の 5 分の 3 が北アメリカか ら来ていること。もうひとつは、他の国々にましてアメリカがユダヤ人を優遇してきたこ とのためです。オランダもアメリカと同じです。オランダで起きている不品行は信じがた いものですが、この国はホロコーストにおいてユダヤ人を保護したのです。唯一このこと のために神の御手が下らないでいると私は確信しています。アムステルダムに行ったこと がある人なら、なぜこの国に裁きが下らないのか不思議に思うことでしょう。
何があったとしても、神はユダヤ人を祝福する者を祝福し、ユダヤ人をのろう者をのろいます。ナチスがドイツでの支配権を握ったとき、映画『シンドラーのリスト(1993 年)』を見た人なら分かるのですが、彼らはユダヤ人の居住地(ゲットー)の周りに壁を建てました。そして、その壁を乗り越えようとしたユダヤ人は誰でも機関銃で打たれました。その後に何が起こったでしょうか?ナチスの第三帝国が崩壊すると帝国の首都ベルリンに壁が建てられ、それを乗り越えようとするドイツ人は誰でも機関銃で打たれました。その壁は
シュパンダウ刑務所でルドルフ・ヘス(ナチ党副総裁)が亡くなるまで倒されることはあ
りませんでした。1930 年代から 40 年代に行われたことに責任がある最後のナチ党員が死ぬまで、その壁は倒されなかったのです。
私の祖父母はイギリスで生まれました。大英帝国は当時世界を制していました。もし彼らに大英帝国に太陽が沈む日がやってくると言ったなら、彼らは笑い飛ばしていたことでしょう(植民地が世界中にあることから“太陽の沈まない国”と呼ばれていたからです)。しかし、イギリスはユダヤ人に帰還を約束していながらバルフォア宣言を破棄し、ユダヤ人が強制収容所に行くことを余儀なくしました。ホロコーストが公になった戦後であっても、イギリスはキプロス島の収容所にユダヤ人を閉じ込め、イスラエルに戻れなくしました。それはイスラム教徒を刺激しないためです。現在、イギリスでは 24 時間ごとに日が沈んでいます。私はそれをよく知っています。そこに暮らしているからです。
スペインでは異端審問がありました。スパニッシュ・メイン(スペインの領地)と呼ばれるものがあったように、スペインは世界の偉大な勢力であり、異端審問があるまでは新世界において傑出した国家でした。1492 年にコロンブスが新大陸を発見し、その直後ローマ・カトリック教会の命を受けてフェルナンド 2 世とイザベルのもと異端審問が始まりました。それが始められてからというもの、スペインの無敵艦隊がフランシス・ドレークに沈められ、イギリスが覇権を握るのに時間はかかりませんでした。
『あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう』のです。
アブラハムの子
ここで言っておきたいのですが、これはユダヤ人と何の関係もありません―むしろアブラハムと結ばれた神の契約のためなのです。そうすると、教会に関してもこのことは真実ではないでしょうか。信者たちもアブラハムの子だからです。教会を祝福する国は祝福を受け繁栄し、それをのろう国は神の裁きのもとに置かれてきました。東ヨーロッパを見てみるとそれは明らかです。
反ユダヤ主義と教会の迫害はほぼ表裏一体の関係を成しています。なぜなら、この 2 種類
の人たちだけが聖書において“主に選ばれた者(”と呼ばれているからです。
詩篇 105 章 6 節、2 テサロニケ 2 章 13 節)
わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く…(創世記 3 章 15 節)
この“女”はイスラエルですが、ひいては教会もその中に含まれています。サタンがいつ
でも嫌ってきた 2 つの人種はユダヤ人と新生したクリスチャンです。なぜなら彼らがアブラハムの子孫であり、“神の民”と呼ばれる者たちだからです。
鉄のカーテンが無くなるまで、共産主義者たちがロシアで最も嫌っていた人たちとは誰で しょう。ユダヤ人と新生したクリスチャンです。ローマ・カトリック教会が最も迫害した のは誰でしょうか。ユダヤ人と新生したクリスチャンです。イスラム教徒は誰を最も嫌っ ているでしょう。ユダヤ人と新生したクリスチャンです。東方正教会も同じ有様でしょう。神はアブラハムの血のつながった子孫、そして信仰による子孫を祝福する者を祝福し、ま たのろう者をのろいます。ユダヤ人と教会をのろう者は神のひとみに触れる者なのです
(ゼカリヤ 2 章 8 節)。しかし、ここで話は終わりではありません。
私たちの旅でもある
アブラハムは旅をしましたが、その旅は私たちの旅でもあります。創世記の記述では、その旅はハランにおいて彼の父が死んだとき始まったとあります。そのときアブラハムが神の召しに応えました。しかし、新約聖書によるとそのときが旅の始まりではないのです。神の召しはカルデヤのウルから始まっていました。
カルデヤのウルはおよそバベルの塔が建てられていた場所です。そして後にバビロン帝国 が興った場所でもあります。アブラハムの父は偶像を作って生計を立てていました。それ はユダヤ人の伝承であるタルムードから分かります。彼の父は偶像の彫刻家だったのです。タルムードの中にはひとつの逸話が残されています――これはただの逸話です――アブラ ハムは金槌(パティーシャ)を取って父のものであった偶像を全て叩き壊しました。しか しその中の一体だけを残しておいて、その偶像に金槌を持たせておきました。やがて父の テラがそれに気づいて「誰がこの神々をみな殺したのだ」と言いました。「あの神がやっ たのです、金槌を持っているあの神が」と言うと「そんなわけがない!あれはただの石の 欠片に過ぎず命も持たず、その中に息も無いではないか!」と言いました。そこでアブラ ハムは言ったのです、「その通りです、お父さま―おっしゃる通りです」これはタルムード からのただの逸話ですが、アブラハムの父は偶像の彫刻家だったのです。
父が死ぬという重大な局面にさしかかり、やっとアブラハムは神の召しに応えたのです。それはカルデヤのウルにいた時から、若いころから与えられていた召しでした。
同じことが多くの人にも起こります。神は人を引き寄せ、絶えず呼びかけていますが、人
生の危機に直面するまで人は神の恵みと召しに応えようとしません。それはときには、親
しい者との死別であったり、生活が立ち行かなくなったり、健康を損なうことまたはそれらが合わさったものであったりするでしょう。神は絶えず呼びかけています。人がそれに応じようとしないときでも、神は何とかして救おうとされています。神は不幸な出来事を通してでも救おうとされるのです。
神は人々をあらかじめ知っておられます(ローマ 8 章 29 節)。私はカルヴァン主義者ではありませんが、神は私たちを世のはじまる前から知っておられ、胎の中から、子どものうちから私たちをみもとに引き寄せています。人が生まれ変わり、その人が主イエスの救いの知識に達し最初に救われたとき、未来に待っていることや現在起きていることの意味が理解できるようになるだけではありません。過去の事柄さえ明らかになるのです。目が開けたようにすべてが分かります。人が主を信じると、過去の人生がなぜそのように導かれてきたかが分かります。頭の中でははっきりとしなかったこと、ベッドで寝る前に頭の中をかけめぐっていたようなこと、あなたの経験や何気ない印象、それらは以前何の意味も成しませんでした。何らかの抽象的な側面があったのかもしれませんが、ただ何を示しているかが分かりませんでした。しかし一旦あなたは救われると、「はじめからずっと導いてくれたのは神なんだ。御子を通して神を知ったこの時この瞬間まで導かれたのは」と気付きます。人が生まれ変わると、未来に待っていること、現在に起こっていることの意味が分かるだけではありません。過去にあったことでさえその意味が分かるのです。神はずっと初めから私たちを導いています。
しかし、ちょうど父アブラハムがそうであったように、私たちが神の恵みとその召しに応えるためには人生の危機が必要なことが多いのです。その後に真実の旅が始まります。
家族から離れることはとても困難なことですが、多くの場合福音はそれを要求します。こ れはユダヤ人にとって真実なことです。またイスラム教徒たちの中にあっても真実です。 しかし、そのことで苦しんでいたローマ・カトリックや共産主義者の家族、ギリシャ正教、ロシア正教の家族の中にいる人たちを私は知っています。パウロは 2 テサロニケの手紙で 異邦人さえもユダヤ人が自分の家族から受けたような非難を受けたと書いています。イエ スは分裂をもたらすために来ました(ルカ 12 章 51 節)。救われた家族がいることは素晴 らしいことです。しかし死は家族を分かちます。家族とずっと一緒にいるためには彼らも 救われなければならないのです。
アブラハムは旅を始めました。主と会ってから最初に滞在した場所はシェケム(Shakem)でした。“シェケム”とはヘブライ語で“肩”を示す言葉です。これは身体の肩という意味ではなく、重荷を負うところという意味です。その地は現在のナブルスの町に近くにあ
りました。アブラハムはそこである樫の木の下に宿りました。“モレの樫の木”です。“モ
レ”とは現代ヘブライ語では“教師”ですが、古代ヘブライ語では“知識”を表す言葉で、特に神の知識を表していました。
木の象徴
ユダヤ人のミドラッシュ(聖書の解釈)において、木の下に宿ることが何かを理解する必要があります。
第1世紀のユダヤ人がヨハネの福音書――1 章・2 章・3 章を読んだなら、これは創世記の創造に対するミドラッシュであると言ったことでしょう。ヨハネ 1 章・2 章・3 章での“新しい創造”は創世記 1 章・2 章・3 章での創造に対するミドラッシュです。
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神は最初の創造において地を歩いていました(アダムが園で神が歩くのを聞いたことを思い出してください。それはイエスです)今度は神はヨハネの福音書の新しい創造において地を歩いていました。ことばは人となったのです(ヨハネ 1 章 1節)。
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創世記で神は暗やみと光を分けました。今度はヨハネの福音書では神は新しい創造において、暗やみから光を分けにやって来ました(ヨハネ 1 章 5 節)。
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創世記では水の上に神の霊があり被造物を生み出したとあります。水と霊によって生まれた者(ヨハネ 3 章 15 節)、神は新しい創造ではいのちを水から引き出しました。
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創世記では小さな光と大きな光がありました。一方で新しい創造では“ヨハナン・ハマトビル Yochannan Hamadvil”――小さな光であるバプテスマのヨハネがいて、“イェシュア・ハマシア Yeshua HaMashiach”――大きな光であるイエスがいました。一方は他方の証をし、受けた光を反映します(ヨハネ 1 章 8節)。
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創世記の創造の 3 日目に神は水に関するしるしをなされました。ヨハネ 2 章 1 節
を見てください、カナで結婚式があったときそれは 3 日目であったと書いてあります。神はそこでも水を用いたしるしをなされました。
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神は人の創造の計画を結婚において、アダムとエバの結婚のつながりにおいて始められました。そこで今度は神は人に新しいいのちを与える計画をカナの結婚において始められたのです。イエスの公の奉仕は結婚式で始められました(ヨハネ 2
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章 11 節)。
このように第 1 世紀のユダヤ人はヨハネの福音書を読んだことでしょう。新しい創造はかつての創造に対するミドラッシュなのです。
ここでヨハネ 1 章を見てみると次のようにあります、『ナタナエルはイエスに言った。「ど
うして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ
前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」』(ヨハネ 1 章 48 節)ナタナエルが実際にどんないちじくの木の下にいたかということは、ミドラッシュでは“ペシェット(peshit)”――単純な意味として知られています。(これはグノーシス主義ではありません。グノーシス主義は象徴を教理の基礎にするのに対し、ミドラッシュでは教理を例えをもって理解を深めるために象徴が使われます)そのペシェットでは「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」という意味ですが、“ペシェル(pesher)”――より深い意味は
「わたしはあなたをエデンの園から、世の創られた時から見ていた」ということなのです。ユダヤ教でいのちの木は“エツ・ハイーム(Ets Chayim)”と呼ばれ、いちじくの木に象徴 されます。とすると、イエスが言おうとしていたことは、「生まれつきのいのち、または 新しく与えられるいのち、どちらが良いですか。わたしはあなたをエデンの園から、世の はじまりから知っていました。わたしはあなたをいのちの木の下で見たのです」というこ とです――エツ・ハイーム、いちじくの木です。
アブラハムは樫の木の下にいました。“樫の木”はヘブライ語で“エロン(Elon)”といい、とても硬い木です。また強度のある材木であり、力のある木です。聖書の中で人が木の下に宿っているのを見たら、それはいつでもユダヤ人のミドラッシュを用いた象徴だと考えるようにしましょう。サウル王が殺される前には彼は柳の木の下にいました(1 サムエル
22 章 6 節)。エリシャが失意の内にいたとき彼はえにしだの木の下にいました(1 列王記
19 章 4 節)。アブラハムはというと彼はモレの樫の木の下にいました――アブラハムは神の知識による力の場所にいたのです。
“シェケム”は自分の重荷を下ろし、神を初めて知る場所です。そこにアブラハムは祭壇を作りいけにえを捧げました。神との関係が変わるとき、私たちはいつでも祭壇を作ることが求められています。ヘブライ語で祭壇は“ミツァベアク(mizbeach)”と呼ばれ、ただひとつの目的のために作られます。それはいけにえを捧げるためです。捧げることがなければ、何の進歩もありません。
シェケムからベテルへ
これまでのところは順調でした。彼はシェケムに来ました。それから次の場所へ移りました。次の滞在場所はベテルと呼ばれる地、ヘブライ語で“ベイト・エル(Beyth El)”――
“神の家”という場所です。人が主について知り始めると普通最初にすることは教会に行くことです。ベテルは西にあり、またアイと呼ばれる地がその東にありました。“アイ”はヘブライ語で“廃墟の山”という意味です。アブラハムはベテルにおいてもうひとつの祭壇を作り、東に背を向けました。東は彼が生まれた地であり、バベルの塔、バビロンが
あった方角です。自分の過去、東の地、生まれた地は廃墟の山となり、今彼は神の家に顔
を向けていたのです。これは大祭司がいけにえを捧げるときと同じでした。大祭司は東、バビロンに背を向け西に顔を向けました。そこでアブラハムはもうひとつの祭壇を作り、再びいけにえを捧げました。
教会に来るということは何かを失うということを意味します。私は献金袋に入れる物のこ とだけを言っているのではありません――自分の過去に背を向けるということがそれです。昔の友人はただの知り合いとなり、彼らと関わるのは証をするためだけとなるのです。自 分が持っていた昔の興味や関心などは、少しの間捨て去らなくてはならないかもしれませ ん。
私は伝統的な賛美歌以外どんな種類の音楽も聴くことができませんでした。なぜかという と、私は音楽に入り込んでいたからです。特にロックやクラシックに凝っていました。そ れに加えて私は薬物をしていたのです。それらの音楽は麻薬を吸っていたときに聴いてい たものでした。私は 2、3 年ほどその音楽を聴くことができませんでした。数年たって自分 の信仰が成長してからは何の影響も無くなり、私の目をそらせるようなことはしませんで したが、音楽はしばらくの間祭壇の上に置かれなくてはならなかったのです。それは私の 目をイエスからそらせるもとだったからです。信仰が成長してからは問題ではありません。今の私にとってはただの音楽です。成長してから音楽は何の問題でもなくなりましたが、 その時期の私にとってはひとつの誘惑でした。祭壇に置かなくてはならないのは皆同じも のではないでしょうが、何かを祭壇の上に置かなくてはならないことは確かです。私たち は過去に背を向けます。もちろん罪に背を向けることは明らかですが、私たちは何かを失 うのです。
そこまでは良かったのです。しかし、ベテルまで一度も達しない人がいることを知っているでしょうか。私はそのような人を“シェケムの住人”と呼んでいます。彼らは福音を理解し信仰の告白をしたかもしれませんが、そこまでなのです。そこから先に進まない人たちです。
私はロンドンにいる“シェケムの住人”を知っています。彼はイギリスのスピーカーズ・コーナーにいます。そこで私もイスラム教徒にやじられたりしながら日曜の午後に今でもときどき伝道しています。彼の名はロバートといって、とてもいい人です。いつも大きな看板を前と後ろに下げていて、イギリスではそれを“サンドイッチ・ボード”と呼んでいます。その板には「キリストが私たちの罪のために死なれた」と書かれており、彼はスピーカーズ・コーナーを歩き回っています。そこの伝道者たちはお互いのことをよく知っているので、私は彼に言いました、「ロバート、私はもう行かなければならないよ。教会で
午後の礼拝があるんだ」そう言うと彼は私の教会がどんな教会かと尋ねてきたので、説明
しました―その当時はロンドンのバプテスト派の教会に通っていました。「君はどんな教会に行ってるんだい?」と私が聞くと、ハイ・アングロ・カトリック教会だと言ったので、
「福音的な教会に行ったらどうなんだい?」と私は言いました。「そうだな、福音的な教会に一度行ったことがあるけど、皆すでに新生を経験している人ばかりなんだ、私が伝道すべき人はそこにはいないよ」このようなことを彼は真剣に言っていたのです。彼は福音を知っていましたが、彼の知っていることはそれだけという様子でした。彼は一度もベテルに行ったことがないのです。
アブラハムはベテルに行き、祭壇を作り自分の過去に背を向けました。しかし、何かが間違った方向に向かってしまったのです。
エジプトに下る
マタイ 13 章を見ると種はいくつかの違った土の上に落ちたとあります。悪魔は人を信仰からそらせ堕落させるために、肉の欲や若いときの情欲やそのようなものを使えないと分かったなら、他の方法で向かってきます。それは何らかの危機や不幸な出来事です。悪魔はあなたに自分の運命は自分で切り開かなければならないと感じさせます。つまり逆境の時には神があなたを捨て去ってしまったと感じさせるのです。そしてあなたは自分で決定を下し始めてしまうのです。幼い信者がこのように悪魔に説得されてしまうのは容易なことです。
人は最初救われたとき“はじめの愛”(黙示録 2 章 4 節)を持ち、自分はすぐマタイやマルコ、ルカ、ヨハネのようになれると感じ、出て行って奇跡を行えると思います。何でも可能だと思ってしまうこともよくあります。彼らははじめの愛を持ち、熱意に動かされていますが、彼らには経験も無ければ多くの知識もありません。自分が何でも知っていると考えていても、本当は何も知らないのです。しかし数ヶ月後に試練がやって来ると自分の知っていたことはとてもわずかであったと気付きます。救われたばかりの人ははじめの愛を持っています――それは彼らがいて持って当然のものであり、私たちが無くしがちなものです。しかし彼らは知恵や経験、知識を持ち合わせていません。そのため彼らは困難に陥るのです。
アブラハムはそこでどうしたのでしょうか?エジプトに下りました。エジプトは何の象徴でしたか?世の象徴です。
イザヤ 30 章を見てください。エジプトに下ることについてイザヤはどう語っているのでしょうか。ヒゼキヤ王は良い王でしたが、役に立たない助言を受けていました。彼はその戦略において危機に瀕していたのです。東側からはアッシリヤが侵略し、他方からはエジプトが来ていました。ヒゼキヤは二つの超大国に挟まれていたのです。そこで彼はエジプトに下ることを勧める助言を受け入れました。預言者イザヤはそのようなことを言う者たちに警告していました。危機の中で自分たちの知恵によってエジプトに行こうとすることに関してです。イザヤ 30 章 1 節には次のようにあります。
ああ。反逆の子ら。――主の御告げ――
彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、
同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。
注意してください。エキュメニズム(教会統一運動)に傾倒している人たちは神の霊によらず同盟を結んでいるのです。その人たちはエジプト、この世の宗教のもとに行ってしまいました。
彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。
パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。 ―2 節
彼らがエジプトに行くことではなく、主の指示をあおぐことなく行ったことが問題だったのです。世とどんな関わりを持つことがあっても、主の知恵と導きを受けてからでなければなりません。世の法律の制度と関わりを持つとしても、主の導きを受けなくてはなりません。世の金融制度、世の保険制度、学校制度と関わりを持つとしても――世と関わりを持つときはいつでも主に指示をあおぐ必要があります。私ならアスピリン(鎮痛剤)を飲むように勧めるなら、祈ること無しにすることはないでしょう。世と関わりを持つときはいつでも主に指示をあおぐ必要があるのです。しかしヒゼキヤはそうしませんでした。危機に陥ると肉の性質はそれ自身が強いと感じるものに引き寄せられます。それはこの世です。
しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。 ―3 節
誰であれ世に向かって行ってしまうなら、結局自分が侮辱を受ける状態になります。信仰を捨てた者はいつもそうなります。この上ない侮辱を受けることになるのです。アブラハムに起こったことを見てください。彼はとても悪い状態になり、実際に他の男に自分の妻
を性的に渡すまでになっていました。
同じままではいられない
イエスに会ったなら同じままであり続けることは出来ません。一旦主を知ったなら、その人はより良くなるかより悪くなるかのどちらかです。しかし、同じままであり続けることはありません。もし、人が世に戻ってしまったなら、その人の道徳水準は救われる前よりずいぶんと低いものとなります。
ただそうなるだけではなく、侮辱を受ける状態に陥ります。イザヤ 31 章 1 節には次のようにあります。
ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。
彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。 主は、悪を行なう者の家と、不法を行なう者を助ける者とを攻めたてられる。エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、
助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。
エジプトに助けを求めても無駄です!馬の力は肉であり霊ではありません。古い性質は絶えず肉に目を向けます。それは世が強いと考えるものに傾くのです。お金や政治権力、影響力、名声。世に関わろうとするなら、そして神が世のものを使うのなら、神の考える通りにそれがなされます。世が主導権を握ることはありません。世と関わりを持とうとする時はいつでも主のみこころが必要です。逆に肉はこの世のものに頼ろうとします。肉は世が強いと考えるものに傾くのです。
アブラハムは肉に頼っても助けにならないことを苦しみながら学びました。彼が進んで行った地域は古代にはシュルの荒野として知られていました。シュルの荒野は、簡単に言うと、西にはシナイ砂漠があり東にはネゲブがある地域です。それはとても長く暑い気候が続く“ミツライム”(エジプト)までの長い旅でした(ヘブライ語ではエジプトのことを“ミツライム”といいます)。後に彼はずっとベテルまで戻って来たとあります(創世記 13 章
1 節)。
初めの旅を再開すること
人は自分が落ちた所から始めなければならないことを知っているでしょうか。彼は本当な らその旅でより遠くへ行き、神が望んでいる場所にたどり着くことが出来たはずです。し かし、彼は自分の時間を無駄にしてしまったのです。信仰を捨ててしまう者は自分の時間、人生を無駄にしてしまいます。永遠に比べると 10 年や 20 年は大した長さではありません が、多くの人がこの世の中で過ごす80 年や90 年と比べると、10 年、20 年は無駄にするに はとても長い時間です。信仰を捨ててしまう者は自分の時間を無駄にします。特に若さを 無駄にしてしまいます。そしてそれは何の良いものを残しません。侮辱を受けるような状 態に行き着くのです。彼らに残された道はエジプトを出るか、そこで死んでしまうかのど ちらかです。それから自分が落ちた所から始めるのです。その失った時間は帰っては来ま せん。ベテルへ戻るのです。
アブラハムはその旅を再開し、最初に進むべき道に着きました。ベテルからより南へ進んで行き、ユダの山地を通り、サマリヤの山間部からそこまで来ました。ベテルからヘブロンへの旅は長く、非常に困難なものです。しかし、ずっとエジプトまで行きそこから戻って来ること程難しいものではありません。アブラハムはヘブロンに来ました。“ヘブロン”とはヘブライ語の“交わり”という言葉――“ヒート・ハ・ブルット(heet ha brut)”から由来しています。ヘブライ語で交わりという意味の“ヒート・ハ・ブルット”とは “組み合わされたレンガ”という意味を持っています。ペテロが1ペテロの手紙 2 章 5 節でこれを引き合いに出しています。私たちが神殿の石であり、教会は神殿です。私たちが“生ける石”なのです。
シュロの主日にイエスが東の門から神殿の丘に来られたとき、人々はハレル・ラバー
(Hallel Rabbah)を彼に向かって歌っていました。(詩篇 113 篇から 118 篇)――「ダビデの子にホサナ」最高議会(サンヘドリン)の人たちはイエスに彼らを黙らせるよう言いました。そうするとイエスは、『もしこの人たちが黙れば、石が叫びます』(ルカ 19 章 40節)と言われました。彼がユダヤ人のミドラッシュを用いて言おうとしていた事はこれです。「もし、ユダヤ人がわたしをメシアとして宣言しなければクリスチャンがそうする」ということです。バプテスマのヨハネは、神はアブラハムの子を石からでも起こすことが出来ると言いました(マタイ 3 章 9 節)これはアブラハムの子としてクリスチャンが起こるということです。
ヘブロンは交わりの場所です―石がかたく組み合わされているのです。
ある建物の中に入って牧師に話しかけたとしましょう。「とても素晴らしい教会ですね。
よく出来ています。しかし、多くのレンガが壁から抜け落ちていますよ。この部分に入る
レンガはどこにあるのですか?」彼はこう答えます。「そこにあります――床の真ん中に積み上げられているのです」床の真ん中に積み上げられているレンガに何の良い所があるでしょうか?レンガがその役割を果たすには壁にはめ込まれ、他のレンガと固定されるしかありません。教会に来るのはひとつのことです。しかし、交わりに入るのはまた別のことなのです。
ヘブロンへはとても長い、山々を通る困難な道です。ヘブロンへ着くとアブラハムはそこ で祭壇を作りました。交わりに入りたいと思うなら、何か犠牲を払わなくてはなりません。誰でも教会へ来て、賛美歌を歌い、十分の一を払い、ささげる物を持って行き――「こん にちは兄弟、お元気ですか?また来週会いましょう」と言うことは出来ます。それは誰で も出来るのです。
そうするのが悪いわけではありません。救われて間もない者はベテルに来ます。しかし、ベテルに留まるのは間違っています。あなたはヘブロンに来て、交わりに入らなくてはなりません。なぜならその交わりの場所においてアブラハムはもうひとつの樫の木、マムレの樫の木の下に宿ったからです。(これは現在の西岸地区キルアテ・アルバの近くです。そこでは争いが絶えません。またマクペラのほら穴といって族長たちが葬られた場所があります)ヘブライ語で“マムレ”とは“頑丈さ”や“活力”という意味であり、マムレの樫の木は“力の樫の木”です。彼がヘブロンに着き、マムレの樫の木の下に宿ってから、彼はやっと親類のロトを救い出すのに戦略的に有利な立場になりました。彼はロトを救うのにベテルに留まってはいられず、ロトがいた近くのヘブロンまで行かなくてはならなかったのです。
教会から交わりへ
私たちは自分の家族や隣人、友達、同郷の人が異教から――約束の地にいるカナン人から救われることを願います。ニューエイジやイスラム教、カルト、偽のキリスト教から救われてほしいのです。しかし、教会に行くだけではそれを成し遂げることは出来ません。
私は長年中東で宣教師をしていました―注意して聞いてください。この世に次のような教会はひとつとしてありません――私はギリシヤ語の“エクレーシア(eklesia)”という意味で言っているのではありません。“集まり”という意味で言っているのです――この世にモスクを相手にして勝ちを収められる教会はひとつもありません。聞こえたでしょうか?この世にモスクを相手にして勝ちを収められる教会はひとつもありません。もし、モスクを相手にするなら交わりとならなければなりません。イスラム教に挑戦するならあなたは
頑丈さを持ち、活力に溢れ、真の強さを持った場所にいなければならないのです。
この世にひとつとしてモルモン教やエホバの証人に挑戦して勝てる教会はありません―彼らの献身の度合いはすごいものだからです。彼らはだましごとに対して熱心です。それは多くのクリスチャンが真実に対して持つ熱心さよりも勝っています。どの教会もエホバの証人の会館や、モルモン教の神殿に挑むことは出来ません。どの教会であってもそれに受けて立つことは出来ません。しかし、交わりは勝つことが出来ます――教会には出来ません。
ベテルは無に帰する
あなたはベテルかヘブロンのどちらにいますか?ベテルに滞在しているなら問題があります。アモス 4 章 4 節には次のようにあります。
ベテルへ行って、そむけ。
ギルガルへ行って、ますますそむけ。
朝ごとにいけにえをささげ、三日ごとに十分の一のささげ物をささげよ。感謝のささげ物として、種を入れたパンを焼き、
(種を入れたパンとは罪や間違った教えなど)
進んでささげるささげ物を布告し、ふれ知らせよ。
ベテルに行ってそむくとはどのようなことでしょうか?十分の一やささげ物を持って来るが、種を入れたパンを持ってくる人たちです。
イスラエルの子ら。あなたがたはそうすることを好んでいる。
――神である主の御告げ――
プリマス・ブレザレンよ、あなたがたはそうすることを好んでいる!ペンテコステ派よ、あなたがたはそうすることを好んでいる!長老派よ、あなたがたはそうすることを好んでいる!バプテスト派よ、あなたがたはそうすることを好んでいる!
「私は教会に通っています!そして十分の一も献金して…」それには霊的な傲慢さ、罪、間違った教えなどのパン種が入っています。「私も教会に通っているんですから大丈夫です!自分の奉仕をし、十分の一の献金もしているので問題は無いはずです」肉は宗教を愛
しています。古い性質はいつもルールを守り、律法の下に戻ることによって自分を正当化
しようとします。アモス 5 章 5 節を見ると、
ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。
(これらの地名は全てヘブライ語で深い意味を持っています)
ギルガルは必ず捕らえ移され、ベテルは無に帰するからだ。
この箇所の意味することに気づいたでしょうか。“ベテルは無に帰する”のです。教会はあなたの期待はずれのものとなります。それが今すでに起こっていないのなら――遅かれ早かれ私は間違いなく保証します――教会はあなたを失望させるものとなるでしょう。そうなる理由は教会がちょうどあなたや私のような人たちでできているからです。教会はあなたを失望させます。教会は存在し続けることが出来ません。“ベテルは無に帰する”のです。交わりこそが存在し続けるものです。
この集会の中にルーマニアで共産主義者の下にいたクリスチャンが幾人かいます。教会はそこでは意味を成していませんでした。共産主義の警察がどんな教会でも一掃していたのです。交わりこそが存在し続けます。それは献身、共同体、家族といった意識を持つ人たちです。お互いのためならあえて危険を冒すような人たち、このようなことが迫害の下で生き続けるのです。迫害はイエスが戻って来る前に、私たちが民主主義だと思っている国にさえやって来るでしょう。“ベテルは無に帰する”のです。
教会の中に安全はありません。ヘブロンが安全なのです――そこに強さが宿ります。そこがマムレの樫の木が育つ場所です。
ベテルの住人
“ベテルの住人”とはどのようなものなのでしょう?彼らを見分けるには多くの方法があります。もちろんそのひとつは、日曜の朝に教会には来るが夕拝には来ない人たちです。仕事や病気の子どもがいたりするような妥当な理由は別です。しかし、そのような人たちはフットボールを録画して家に帰って見るより今見たいのです。これが“ベテルの住人”です。また、日曜に来て割り当てられた仕事をこなすが、週の中ごろの集会には来ない人たち。特にいつもそうである人たちです。病気の子どもや仕事上の責任などは妥当な理由ですが、そこに居たくないがために言い訳をする人たちがそうです。この人たちは問題を
抱えています。彼らの優先順位は間違っています。
確実に“ベテルの住人”を言い当てる方法があります。“ベテルの住人”の見分け方をお教えしましょう。それは救われて5 年、10 年、60 年もしくはそれ以上経っているが、自分が“目”であるのか“足”であるのか、または“手”であるのかを知らない人たちです。その人たちは自分の賜物が何であるのか、奉仕は何なのか、自分が教える賜物を持っているのか、伝道の賜物を持っているのか、助ける賜物を持っているのか――自分の賜物が何か分からないのです。彼らは自分が壁のどこに合うのかが分からないので、床の上のレンガのままでいるのです。教会には来ます。そして十分の一を献金し、賛美歌を歌い、言うのです。「また来週会いましょう」これが“ベテルの住人”です。
西洋世界のクリスチャンのほとんどが“ベテルの住人”です。西洋世界で私が訪れるほとんどの教会では、祈りを15%の人が85%行っています。祈祷会を呼び掛けて何人集まるかを見てください。15%の人が85%の奉仕を行っています。15%の人たちが85%のささげ物をしているのです。これは量の問題ではなく、能力についてその割合について言っているのです。15%の人が交わりに入っています。しかし他の人は教会に行っているのです。
“ベテルは無に帰”します。私はこのことに笑っていられません。しかし、ベテルは無に帰します。私は教会があなたを失望させると言っているのです。そして終わりの日には私たち全てを失望させるでしょう。
教会に来るだけでは何も得ることは出来ません。幼い信者ですか?教会に来てください。しかし、後に交わりに入りその祭壇を作らなくてはならないのです。交わりに入るには何かを犠牲にしなくてはなりません。それは時間やお金であったり、霊的な戦いがあるでしょう――代価が必要なのです。祭壇が無ければいけにえは捧げられません。そしてささげ物が無ければ進歩は無いのです。
私たちはみなこの地図のどこかにいる
アブラハムの旅の地図を見てみましょう。全ての人がこの地図の上にいます。外にいる保育園や教会学校の子どもたちでさえも――彼らは気付いてはいないでしょうが、カルデヤのウルにいるのです。両親の信仰を通して、彼らはすでに主によって救いの道に導かれています。神はすでに彼らを召しておられるのです。私たちは幼児に洗礼を授けることはしませんが、神はクリスチャンの子どもたちを世の子どもたちと違うように見ておられます。
あなたはハランにいて、何らかの危機に直面しているのかもしれません。まだ生まれ変わっていなかったり、イエスを受け入れていない人はこれを何かの理由があって読んでいることでしょう。それはあなた自身の理由ではなく、神の意思のためです。あなたの人生の目的は何であるか分からないでしょう。しかし、あなたがイエスに立ち返ると明らかになります。なぜならクリスチャンになることはとても簡単だからです。おそらく今読んでいることは難しいかもしれません、しかし、あなたが生まれたとき何も知らなかったように
――次第に学んでいきます。生まれ変わったときも同じことが起こります。進んでいくうちにより学んでいくのです。生まれることが簡単なら、生まれ変わることも簡単なのです。
私はここでアメリカの TV で見られるような、詐欺じみた説教者たちのうそや、くだらな いことを指して言っているのではありません。彼らが教えているのは生まれ変わることで はなく、巧妙なうそです。私は福音について語っています。福音は分かりやすいものです。もし、あなたに子どもがいるのなら、自分の子どもに抱くような愛、神はそのような愛を 創造しあなたをどんなに愛しているかを知らせようとされました。あなたが子どもを救う
ために進んで自分の命を犠牲にするように、イエスはあなたの罪のために十字架に向かい
ました。それが彼の行ったことです。私たちはみな神の愛に反抗し、神の権威を退けました。そして悪魔と呼ばれるこの世の神の下に自分の身を置きました。そのために人間の政治や経済政策はうまくいくことがなく、そのために私たちは環境を破壊し、このことのために結婚の関係は破綻し、私たちは良い人となりたくて良い事をしたいのに、悪いと分かっている事をしてしまうのです。それは私たちの性質が堕落しており、この世は邪悪な者の手の中にあるからです。
神にとって、ひとりの罪の無き人は全ての罪人より勝っています。このためイエスは全ての人のために死ぬことが出来ました。なぜなら、罪なきひとりの人はすべての罪人より価値があるからです。神は人となられて私たちの罪を取り去りました。私がしたすべての間違ったこと、あなたがしたすべての間違ったことは、神によってイエスの上に置かれたのです。そして神はイエスの義を取り、それを私たちに与えられました。また、イエスが死者から復活されたように、イエスはまた私たちを死者から復活させ永遠のいのちへと導きます。これが福音です。
あなたは罪から立ち返らなければなりません。神にそれを行うための力を求めると、あなたは与えられます。神は私をコカイン中毒から救ってくださいました。それは大学にいた時のことでひどい中毒でした。悪魔は私の人生を捕らえていましたが、イエスは悪魔よりもさらに力強い方で、コカインよりも強力な方でした。彼が私にされたことは誰にでもなされます。あなたのためにそれをされます。あなたが求めると神は罪から立ち返る力を与えてくれるでしょう。神はあなたの罪を取り、彼のいのちを与えられるのです。
あなたが神を知らなければハランにいます。人生の危機の中にいます。今にでもあなたは死からいのちへと移ることが出来ます。地獄に行かず、裁きにも会わず、今アブラハムの子どもとなれるのです。
あなたは教会に来ていてベテルにいるのかもしれません。悪魔も毎週教会に来ます。彼は非常に宗教心にあついのです。悪魔は宗教をもって人々を地獄に連れて行きます。彼は麻薬や薬物乱用、ギャンブルの中毒を合わせたものよりも宗教を使うのです。宗教は一種の麻薬です。
歴史の中で最も影響力を持っていた人は二人ともユダヤ人でした。カール・マルクスとイエス・キリストです。双方が認めることがあります。宗教は人類の歴史の中でなされた最大の詐欺であったということです。宗教はあなたに何の益ももたらしません。益となるのはイエス・キリストのみです。宗教は世界の問題の解決策ではありません。北アイルラン
ドを見てください――あれが宗教です。宗教は世界の問題の解決策ではなく、宗教こそが
世界の問題です。イエスが唯一の解決策なのです。
今あなたは間違った方向に進んでしまっているのかもしれません。この世の律法に従い、古い性質が好むもの、肉の欲、性的不品行、正しくない関係、薬物――それが何であっても、お金への愛であっても、間違った方向に向かってしまっているかもしれません。自分は神に見捨てられたと感じていることでしょう。神はそうされなかったのですが、そうされたようにあなたは感じ、横道にそれはじめ、自分の存在の意義を自分で握っていると考えエジプトに下ってしまったのかもしれません。この世に戻ってしまったのです。
そこでは何の希望もありません。あなたはただそこで侮辱を受ける状態に行き着くのみです。残された道はそこから出るか、そこで死ぬかのどちらかです。“うまくいった”背教者というものはありません。神学的に見て不可能なのです。あなたは人生を無駄にし、若さを無駄にしてしまっているのです――それ以外は何もありません。ベテルに戻り、主のもと神の家に戻り、あなたが落ちた所から始めなくてはなりません。
ベテルがほとんどの人のいる場所です。しかし、神は私たちがそこにいることを望んでいません。神はヘブロンにいることを望んでいるのです。それは私たちが床の上のレンガにならず、壁に固くはめ込まれた者となるためです。神はあなたがキリストのからだの中での位置を知ることを望んでおり、頑丈さと活力に溢れた場所に立って、暗やみの王たちから親類を救うことを望んでいます。これこそが神の望んでおられることです。
あなたはどこにいるのでしょうか?小さな子どもはカルデヤのウルにいます―これにはみなうなずくでしょう。しかし、あなたはハランにいてイエスをまだ受け入れずにいるでしょうか?そのような危機の中にいるのでしょうか?今日あなたの旅を始めることが出来ます。聖書は『あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。』(箴言27章1節)と言っています。今この時が約束の時です。今日こそが救いの日なのです。主を知らなければ私たちに連絡をください。主を知らないままでありつづけることがありませんように。
エジプトにいる人もいるでしょう。心から願います――神はあなたをとても愛しておられます。この人生は短すぎます。無駄にしないでください。何の喜びもない年月が近づいています。今この時は取り戻すことが出来ません。伝道者の書で「何の喜びもない」と言う年月が近づく前にと書かれています。創造者に立ち返ってください。
この中のほとんどの人、クリスチャンのほとんどが――少なくとも西洋では――教会にい
ることでしょう。クリスチャンの大半がベテルにいます。私はあなたの教会にひとつの希
望、ひとつの祈りがあります。これは私の望みであり、私の祈りです。教会のままであり続けることがありませんように。私の祈りはあなたの教会が交わりとなることです。