シオンの娘
ジェイコブ・プラッシュ
私たちがよく聞かれる質問のひとつに教会内での女性と女性の役割があります。今回はこのテーマをクリスチャンの観点から、またユダヤ的観点から考えてみます。このテーマをより立体的に見ていくために幾人かの『シオンの娘』たちを見ていくこととします。まず皆さんがすでにご存知の箇所から見ていきましょう。最初のものは第一コリントの手紙です。
『教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです』1 コリント 14 章 34 節-35 節
閉鎖的なブレザレンはこれを文字通りに取ります。といっても聖書を文字通りに解釈すべきではないと言っているのではありません。ですがこの箇所は閉鎖的なブレザレンが行っていることを本当に意味しているのでしょうか。教会内の女性はただ座って、何も話すことを許されていない、ある人は聖書がその通りのことを語っていると言います。ですが確信を持って言えるのは、私たちがこの箇所をより大きな文脈をもって見るとき、そのような意味ではないということです。とはいえ、今日の教会内の現状が良いと言っているのでもありません。パウロはここで一体何を言わんとしていたのでしょうか。大きな論議を引き起こすもうひとつの箇所は第一コリントの 11 章 3 節から 7 節です。
『しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリス トであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることにな ります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです』1 コリント 11 章 3 節-7 節
パウロは 9 節でもこう語ります
『また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです』1 コリント
11 章 9 節-10 節
いつもこの箇所について多くの手紙や、直接の質問を受けるので、この場を借りて一挙に答え
てしまうのが良いかと思われます。
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女の子孫(種)が蛇の頭を踏み砕く
もちろん、これは創世記 3 章 15 節からです
『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく』(創世記 3 章 15 節)
オーストラリア人のケビン・コナー(Kevin Conner)という人物は初期に良い本を書いていましたが、今彼は再建主義に入れ込んでいます。彼はこの箇所をもって、キリストの再臨無しに教会がサタンを支配することができると言います。しかしながらこの文脈において、エバは教会よりも先にイスラエルを象徴しています。置換神学は間違っており、この女はイスラエルです。教会はイスラエルに置き換わったものではなく、イスラエルに組み入れられたと聖書は語っています。この女はある面まで教会も含んでいますが、イスラエルの代わりとされているわけではありません。第二に、女の子孫がサタンの頭を踏み砕くのであって、女ではありません。これは大きな間違いです。
ローマ 16 章 20 節には
『平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます』(ローマ
16 章 20 節)
誰が女に勝利を与えたでしょうか。主です。女が踏み砕くのではありません。士師記に登場するヤエルがシセラの頭を天幕のくいで刺し通した時、シセラの頭は砕かれましたが、誰が彼女に勝利を与えたでしょうか。その出来事は主が遣わされた軍隊が来るまで起こりませんでした。これはまたゼカリヤ 12 章とも同じです。イエスさまが再臨されるとき、イエスさまが勝利を与えます。女性が夫の助け無しに勝利を得て、その勝利を贈り物として捧げるという考えはおかしなものです。教会はキ リストのなさったことにより最終的に勝利を得ます。キリストは勝利した教会のために来るのではなく、千年王国を打ち立てるために勝利する教会と共にやって来るのです。蛇の頭を踏み砕くのは女の子孫です。ここで違う点からこのテーマの性質を考えてみましょう。私は聖書の語る環境問題について大きな懸念を抱いています。黙示録には『地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時』とあり(黙示録
11 章 18 節)、創造の初めから地球を管理するように神に言われたのに、人間は地球を汚染します。
環境破壊は罪です。その一方で、環境保護運動の中にはニューエイジの強い影響が入り込んでいるのが分かります。その多くのものが東洋の『母なる地球』や、ローマ・カトリック教会の『母なる
何々』という考えから来ています。みなさんご存知でしょうか、熱心なローマ・カトリック教徒に「マリヤ
も罪を犯した」と言えば、彼らは自分たちの母親が馬鹿にされたように感じます。聖書の「すべての人は罪を犯した」という箇所や、マリヤが救い主を必要としていると語ったことを彼らは気にかけません。それが彼らの母なのです。忠実な花嫁はいつでも自分の夫の誉れを尊びます。しかしイゼベルのように不忠実な妻は自分に誉れをもたらすために夫を利用します。忠実な妻は夫を敬い、妻の誉れは夫から来ます。教会の誉れはイエスです。
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二人組で登場するシオンの娘たち
一、二の例外を除いて、聖書に登場する忠実な女性はいつも二人組で描かれています。ラケルとレアの例を見てみましょう。ヤコブは妻としてラケルを望みましたが、ラケルと同じ程レアを愛せるようになってからラケルをめとることができました。初めはレアが子宝に恵まれていましたが、後にラケルが多く産むようになりました。イエスはイスラエル、ユダヤ人、またいってみるならばシオンの娘たちのために来られましたが、最初に異邦人教会をめとられました。イエスさまがイスラエルと同じ程、異邦人教会を愛されるようになると、再臨においてイスラエルをめとられます。初めは異邦人教会が多くの霊的子孫を産んでいましたが、最後にはイスラエルが多く産むようになります。レアとラケルと同じです。ひとりはめとる必要があった者で、もうひとりは実際に望んでいた方の者です。そこには二人の女性がいました。
ルツとナオミももうひとつの例です。ひとりはユダヤ人で、もうひとりは異邦人でした。二人の女性はいつでもイスラエルと教会の象徴です。私たちは象徴を元に教理を作ることはしませんが、象徴は教理を例えをもって示し、的確に理解できるように私たちを導きます。さて、ルツ記の最後には何が書かれてあるでしょうか。
『しゅうとめナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたがしあわせになるために、身の落ち着く所を私が捜してあげなければならないのではないでしょうか。ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています』(ルツ 3 章 1 節-2 節)
(ボアズという名は「彼の力にあって」という意味で、ボアズはイエスの象徴として打ち場にいました。ボアズはイエスのように手に箕をもって麦と殻を分けていました)
『あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてから入って行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。」』(ルツ 3 章 3 節-4 節)
ここでユダヤ人女性が異邦人女性に男を手に入れる方法を教えました。救いはユダヤ人から来
ます。ユダヤ人は諸国にトーラーと教会をもたらし、イエスを『手に入れる』方法を教えました。またルツがルツ記 4 章 11 節から 14 節で夫を得た後、ベツレヘムで男の赤ん坊が生まれ、その名は
『ゴエル(goel)』――贖い主(買い戻す者)と呼ばれました。そして異邦人の女はその子をユダヤ人の女に与えました。第一世紀に神が福音を異邦人教会に伝えるためユダヤ人を用いられたように、最後の時代にはユダヤ人に福音をもたらすために異邦人教会を用いられます。疑う余地なく 85 パーセントのユダヤ人が異邦人信者によって救いに導かれています。そしてユダヤ人の救いに欠かせないのが、これまで見たこともないほどの数の異邦人信者たちの祈りです。ユダヤ人伝道のための 90 パーセントの資金が異邦人クリスチャンから来ているのでないかと私は思います。ナオミはどのような女性だったでしょう。彼女はイスラエルのように、その子を授かるまで苦い思いを抱いていました。その子は贖い主と呼ばれ、ダビデの町であるベツレヘムで生まれました。そしてルツによってそのユダヤ人女性の手に与えられました。16 節でナオミがその子を抱くと近所の女たちは「ナオミに男の子が生まれた」と言いました。その子はユダヤ人の子どもとなったのです。このようにひとりはユダヤ人、もうひとりの女性は異邦人です。これがシオンの娘たちです。そして 11 節にはこうあります。
『「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に入る女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。』(ルツ記 4 章 11 節)
(ルツは教会の象徴であり、ルツ記は教会の誕生日、『シャブオート』――ペンテコステの時期にユダヤ人のシナゴーグで朗読される書です)
イスラエルの礎となったヤコブの十二人の息子たちは、旧約聖書での十二使徒のようなものです。黙示録に登場する 24 人の長老たちは、私が考え得る限り、十二人の族長(ヤコブの息子たち)と十二人の使徒たちです。イエスは彼らにイスラエルの部族を裁くことになると語られました。これを考えてみても、族長と使徒たちが二組になって登場しています。
モーセと関連する女性を見ていきましょう。メシアはモーセのような預言者です。彼の母を除いて、モーセの奉仕に密接に関係していた二人の女性がいます。それは姉のミリヤムと妻のチッポラです。ひとりはユダヤ人で、もうひとりは異邦人でした。そしてユダヤ人であったモーセの家族は異邦人との結婚を快く思いませんでした。現代、熱心な正統派で無い限り、ユダヤ人女性が異邦人男性と結婚することは受け入れられています。しかしユダヤ人男性が異邦人女性と結婚するなんてことがあったなら、もう大変です。チッポラは黒人女性で、クシュ人であり、何らかの人種差別があり、モーセの家族は黒人女性と結婚したことを快く思っていませんでした。モーセと関係していた二人の女性、ユダヤ人女性と異邦人女性がいましたが、ミリヤムは断ち切られ、その異邦人女性がモーセにとって重要な役割を果たすようになりました。
従ってレアとラケルがいました。レアは少なくとも異邦人教会を象徴しています。そしてユダヤ人
と異邦人であるミリヤムとチッポラ、またユダヤ人と異邦人であるナオミとルツ。士師記を見るとそこにはデボラとヤエルが登場します。ヘブライ語で『デボラ』とは『蜂』という意味で、蜂蜜を表すヘブライ語も『デバッシュ(d’vash)』です。そしてこのペアもユダヤ人女性であるデボラと、異邦人女性のヤエルです。イスラエルの勝利は互いに協力し合うユダヤ人女性と異邦人女性の手にかかっていました。シオンの娘たちは二人組で活躍します。そして二人の関係はいつも二つの契約の関係を示しています。
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旧約の子と新約の子
ここでルカを見てみましょう。二人組で登場するというパターンは新約にも見られます。
『エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。』(ルカ 1 章 41 節)
母の胎の中にあってもヨハナン・ハマトビル――バプテスマのヨハネは聖霊で満たされ、マリヤの胎内にいるイエスを喜びました。マリヤはその時妊娠したばかりでした。エリザベス――『エリシェバ
(Elishevah)』とは『わたしの神は誓われた』という意味で、おそらく妊娠 6 カ月でした。命が産道を過ぎてから始まるなんてことを誰にも言わせないようにしましょう。それは嘘です。命は胎内から始まっています。さて、なぜ二人の女性が顔を合わせたときにヨハネが胎内でおどったのでしょうか。その胎内の子どもたち二人が二つの契約の子だったからです。ヨハネは旧約の子であり、イエスは新約の子でした。古い契約はメシアを望んでおり、古い契約のために人々は罪定めされており、救い主を必要としていました。宗教は誰も救うことができません。律法は誰も救えません。それを示すためにモーセは約束の地に入ることができませんでした。ヨシュアが民を導き上らなければならなかったのです。律法は約束の地に導き入れるのに誰か他の人が必要であり、自分に不可能なことをしてくれる人がいることだけを教えています。神が定めた宗教はただひとつであり、それは聖書のユダヤ教です。それは今日見られるラビのユダヤ教ではありません。神が定められた唯一の宗教はガラテヤ人への手紙で言われている通り、『パイダゴーゴス(paidagogos)』――『養育係』だけであり、その養育係は救いの必要性を私たちに教えます。それが古い契約の主な役割でした。そのためにヨハネはイエスさまが来ると喜びました。パウロが言うように律法は無益だったからです。ルカ 16 章
16 節を見てみましょう。
『律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています』(ルカ 16 章 16 節)
ここの「無理にでも入る」というギリシア語は「アウテーン・ビアゼタイ(auten biazetai)」です。ギリシア語の知識が何も無いモーリス・セル― ロ(Morris Cerullo )やアンドリュー・シェアマン
(Andrew Sherman)という人たちはおかしなことに、この「アウテーン・ビアゼタイ」を、『力によって御国を勝ち取ることだ』と教え、この箇所を勝利主義神学(triumphalism)のために用いていますが、本来の意味はそうではありません。律法は私たちが罪深く、救われる必要があることを教えます。それは沈みゆく船で警報が鳴り響いているようなときに、救命ボートに人が無理にでも駆け込んでいくような状態のことです。律法はヨハネまで宣べ伝えられ、イエスからは御国が宣べ伝えられました。律法の子であるヨハネは恵みの子を見ました。
これまで話してきたようなパターンが『ブノット・ツィオン(b’not tsion)』――シオンの娘たちに見られるもので、彼らはいつもペアになって活躍します。一方は律法を予兆し、もう片方は恵み、しばしば一方はイスラエルを示し、片方は教会を表しています。また一方は旧約を象徴し、もう一方は新約を象徴しています。それではここからは聖書に見られるさらなるパターンを見ていきましょう。
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彼女の頭はいつも覆われている
旧約聖書、タナクにおいて神に用いられた女性はどのようなものであったでしょうか。彼女たちの頭はどうなっていたでしょう。神はエステルを用いられましたが、彼女の『頭』はモルデカイによって覆われていました。神はダビデの系図を始めるためにルツをも用いられ、彼女を通して後にベツレヘムでメシアが生まれましたが、彼女の『頭』はボアズによって覆われていました。神はデボラも用いイスラエルに勝利をもたらされましたが、彼女の『頭』はバラクによって覆われていました。
頭はいつも覆われています。ルツの夫はボアズ(彼の力によって)でした。彼女の強さは夫の中にあったのです。女性は男性が持ち合わせていない内側の強さを持っています。そう思われないなら出産の光景を見てください。ラグビー選手でもあれほど大変なことを経験したらもう試合に出られなくなるでしょう! ですが霊的な強さ、感情的な強さ、真理的な強さについていうと、妻は夫から、また女性は覆いとしての男性からそれらを引き出す必要があります。
このような理解をもって再び第一コリント 11 章 3 節から 16 節を見てみましょう。女性は御使いたちのために頭を覆わなければならないとあります。これはどのような意味なのでしょう。神が良きものとして設計されたものは何であれ、人の堕落により敵は悪のために用います。男性は鈍感で、私も鈍感です。男性は女性の敏感さに依存しています。夫婦が救われたとき、私が知っている中の
85 パーセントは奥さんが最初に救われています。夫婦が共に導きを祈るとき、85 パーセントの割合で奥さんが聖霊の声を聞き取ります。女性はより敏感であるために明確に、また迅速に聞き取ります。女性はいつでもより敏感でしたが、堕落のために男性は鈍感になりました。また一方で堕落のために女性は過度に敏感になってしまいました。そのため女性は聖霊の声を聞き取り易いのと
同時に、他の霊の声を聞き、騙されやすくなっています。女性は霊的な誘惑や欺きに対してもろく
出来ています。エデンの園で蛇はアダムの妻を通して彼を攻撃しました。サタンはイエスを攻撃できないので、今は教会を通してイエスを攻撃しようとしています。このことのために奉仕に携わっている男性が正しい妻を見つけることは重要なのです。妻は神に用いられるか、悪魔に用いられるかどちらからです。ジョン・ウェスレーの妻の場合は(主が彼女を取り去られるまで)彼の働きを妨げるために悪魔によって用いられていました。ここで第二コリントの手紙を見てみましょう。
『私の少しばかりの愚かさをこらえていただきたいと思います。いや、あなたがたはこらえているのです。というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。』(2 コリント 11 章 1 節-3 節)
黙示録 11 章には竜と蛇が登場します。サタンには 2 つの攻撃形態があります。迫害者としての竜と、誘惑者としての蛇です。女性は蛇の攻撃に対して弱さを抱えています。蛇の攻撃は竜に食べられるのと同じほど危険なものです。毒があるからです。そのために男性の権威は支配ではなく、保護することに基づいています。夫はキリストが教会を愛されたように妻を愛することが求められています。キリストは自分を明け渡して、教会を愛しました。不従順という問題を抱える女性には、たいていの場合妻を愛さず、自分を明け渡していない夫がいます。夫がキリストのように明らかに自分を妻のために明け渡すとき、そこまでして反抗的である女性はそうはいません。女性は従順にならなければなりませんが、その従順は男性が勝ち取るものでもあります。妻は夫を上司のようにではなく、保護のための権威として見るべきです。それは神が女性の物質的な安全と共に、女性の霊的な安全に対する責任を男性に問われるからです。神は私の妻の安全に対する責任を私に問われます。妻はその責任を理解すべきです。一方で、男性はその責任をもって自分を妻に明け渡すべきです。これが理想的な形です。現実の世界では、堕落のために男女関係の上には呪いがあります。神は私たちを贖われましたが、同時に結婚生活における摩擦を通して、私たちをよりイエスに似せていきます。私たちは組み合わされたレンガ(ヘブライ語ではヒート・ハ・ブルット)のようであり、
『鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる』のです(箴言 27 章 17 節)。神が定められ
た 2 人の交わりの中で最も密接なものがクリスチャン同士の結婚です。結婚は堕落以前に神が定めたものであり、人間の文化によって作られたものではありません。
第一コリント 11 章には男が頭にかぶり物をして祈るのは自分をはずかしめることだとあります。パウロはこの手紙をコリントの教会に書き送っており、そこにはいくらかのユダヤ人と多くの異邦人がいました。ここで扱われているのは中東のユダヤ文化ではなく、離散し、ヘレニズムの影響を受けたユダヤ文化です。そしてこれは異邦人クリスチャンの問題を扱っているものです。
ユダヤ人の男性はタリートと呼ばれる祈祷用ショールを持っています。聖書時代でさえ、大祭司
には衣装がありました。大祭司は『レハクリブ(lehakriv)』――『執り成し』に向かうときターバンを被っていました。ユダヤ人の男性が頭を覆って祈っていたのです。そうすると、男性が頭を覆って祈るのは不自然で自分をはずかしめることだとある人たちは言います。ですがこれは文化的な問題で す。一方、そこに含まれている原則は文化的なものではありません。私たちの文化では結婚指輪が結婚のシンボルとなっています。他の文化ではそれは女性が頭を覆うことです。お分かりでしょうか。長い髪はある文化では女性の誉れとみなされていますが、他の文化ではそうであるとは限りません。原則を反映する形の文化は相対的なものですが、原則自体はすべての文化、すべての時代に当てはまるものです。私はお風呂場にまで帽子を被っていく女性を知っています!ですがその人は とんでもなくお喋りで、彼女のご主人は犬の鎖につながれているような状態でした!その人は帽子は被っていましたが、本当に『頭』は覆われていたでしょうか。少なくとも彼女はそう思っていました。原則の表現の仕方は文化に縛られるものですが、原則自体はそうではありません。といっても、教会の伝統や慣習としてブレザレン教会のいくつかがしているように、女性が頭の覆いをしていることに私は何の問題も感じません。ペンテコステ派の一部もしていますし、私はそれを問題と感じていません。私の言いたいことは、それがパウロの伝えたいことではなかったということだけなのです。パ ウロの言いたかったことは、霊的誘惑に対する女性のもろさと、男性からの保護の必要性でした。男性は鈍感ですが、女性より信じやすくなく、騙されにくいものです。おかしな流行やおかしな教理に最初に飛びついてしまうのはたいてい女性です。それではさらに考えていきましょう。
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責任感を持たない男性
『同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行ないを自分の飾りとしなさい。女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。』1 テモテ 2 章 9 節-15
この箇所はいくつかのことを語っています。結婚生活で主人をコントロールしている厚かましい女性がいても、問題はその女性にあるのではなく、夫婦関係において権威を持たない夫にあります。女性牧師がいる教会の問題は女性ではありません。女性は本来堕落のために霊的に不安定であ り、男性からの強さを求めています。女性差別に聞こえたら申し訳ないのですが、これは本当です。教会がその強さと導き、安全性をキリストに求めるように、妻も導きと安全性、強さを自分の夫から得るべきです。また妻は夫の強さにも貢献できます。賢明な妻は白馬の王子様のような男性がいない
ことを分かっています。クリスチャンの中にもいません。それゆえ妻は「私は夫を理想の姿に近づけ
るために用いられる神の器だ。夫はまだその姿には達していないけれども、その姿に近づけるために神の器になる必要がある」と言うべきです。白馬の王子様はイエス様だけです。同じことが箴言
31 章の理想的な妻にも言えます。
ユダヤ人が結婚する時には、ヘブライ語で「モーセとイスラエルの律法にしたがってこの指輪をもって結婚します」、また「アニ・メクデシェット・ラク」――「私はあなたを聖なるものとします」と言います。夫は妻を聖なるものとし、神に対して清いものにするための神の器です。性行為でさえ聖なるものです。『寝床を汚してはいけません』(ヘブル 13 章 4 節)。ハシド派ユダヤ人は性行為が行われるときに、シェキナー――神の御霊が寝床の上を覆っていると言います。それはある意味で的を得ています。私たちはカバラー的に考えることはありませんが、その説明には真理があります。
女性エバが騙され、男性アダムは騙されませんでした。結婚関係において男性が家族の頭とならないならば、女性が押しつけがましくとも、それは女性の責任ではなく、男性の責任です。もしそれが女性のせいであったとしても少なくとも彼の責任であり、その責任を処理しなければ男性のせいとなります。私の夫婦関係や子供に何か悪いことが起きたなら、私のせいではないかもしれませんが、神の目から見ると私の責任です。それは夫婦や家族関係において私が神の権威となっているからです。女性がイゼベルのように厚かましいという男性の文句を聞くのは好きではありません。男が男らしくしていればそのような問題は起こりません。私が受け取る多くの手紙の中には、講壇上で女々しい男や、夫婦関係において女々しい男について語る女性たちからのものがあります。
「私の夫はなぜあの教えを間違っていると言わないのでしょう。私たちは 20 年間教会にいて、金儲
けの福音や、エキュメニズムが入って来ているのに、なぜ私の夫は反対しないのでしょうか」というような内容です。私はこのような手紙をいつも受け取ります。このような女性たちに何の悪い点もありません。
霊的に成熟した女性であれば、それはデボラに起こったことと同じです。「バラク、責任を取りたくなければ、それでいいでしょう。私が取ります。あなたは私の覆いとなり、私がそれを行います。しかし報酬はあなたではなく、私が取ることになります」神がそのような方法で女性を用いるときは、男性が任された仕事をしていないときです。例外はありますが、トロントの実情を見、信仰のことばやエキュメニズムの真の姿を知りながら立ち上がらない多くの教会指導者たちがいます。教会が間違いにおびき寄せられているのを見ても、何もしない牧師たちがいます。
『見よ。あなたの兵士は、あなたの中にいる女だ。あなたの国のもろもろの門は、敵のために広くあけ放たれ、火はあなたのかんぬきを焼き尽くす』(ナホム 3 章 13 節)
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原則と文化
第一テモテで他に何が語れているかを見てみましょう
『同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく』(1 テモテ 2 章 9 節)
ここでも私たちは原則と文化の違いを理解しなければなりません。雅歌にはメシアと花嫁、神とイスラエルのアレゴリーが描かれています。その中で花嫁は、このギリシア人女性が付けてはならないと言われている、まさにその飾りを多く身につけています。ペテロが第一ペテロの手紙の中でよりユダヤ人の指導者たちに書いたのに対し、半分ユダヤ人、半分異邦人であったテモテは主に異邦人で占められている教会を任されていました。ではペテロがどう書いているかを見てみましょう。
『同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるのです』(1 ペテロ 3 章
1 節-6 節)
パウロは「髪を編んだり、宝石を付けるな」と言っており、ペテロは「そのようなことだけをしてはならない」と言っています。ユダヤ文化の中で髪を編んだり、宝石をひとつふたつ付けることは何も悪いことではありませんでした。ペテロは主にユダヤ人に対して書き送っています。しかしギリシア文化の中ではそのようなことは、売春やみだらなことと関連しており、神殿娼婦が当時存在しました。本文は原則を強調しています。著者は「売春婦のような身なりをするな。不品行な身なりはするな」と語っています。女の人たちには売春婦のような格好をして教会に来てほしくはありません。ギリシア文化では髪を編んだり、宝石を付けることがそのまま売春婦や神殿娼婦と関連していました。そのような原則を著者は言っています。原則がどう表現されるかは文化次第です。この二つの箇所でみたように、同じ命令でも主にユダヤ人で占められた教会に対する強調点と、主に異邦人で占められた教会に対する強調点とは違います。そこには同じ原則が存在しますが、その表現方法はさまざまです。
人が「化粧をするな」というようなルールを作りだすと、それは(律法主義ではなく)ノミアン主義に陥っています。そのような人たちは救われるためにあれこれをしなさいと言っているのではなく、
イエスによって義とされるためにイエスへの信仰に加えて、このようなことをしなさいと言います。主
のことを思って化粧をしないという人がいても私は何ら問題がありません。女性は自然の美しさを持っています。女性は元から美しいものです。すべての女性は夫が魅力的に感じるものを与えられています。すべての女性がそうです。しかし先の聖書箇所のために女性は絶対、化粧も宝石も付けてはならないというのは誤解です。聖書箇所はひとつの原則に訴えかけているからです。私は人が水着を着ていないエイラットのビーチに行き、そこで日光浴をしている人たちにトラクトを配ることができます。彼らはスカンディナヴィアやドイツ、オランダなどから来たかわいい女の子たちで何も着ていません。私はそれでもセックスのことすら頭に上ることなくトラクトを配ることができます。しかし性欲をかき立てるような水着を着た人たちがいるテルアビブに行くと、私は気が狂いそうになります。耐えられないのです。その場所の女性たちは夫以外の者を性的に煽るためだけにそのような水着を着ています。私個人にとっては「着ても着なくてもいいが、誘惑しないでくれ」と思います。女性が挑発的に振る舞うのは正しくありません。私はカリスマ派の女性たちに関しても多くを見てきました。聖書の学びに行くと、自分の夫にしかしないような仕方で他の男性に腕を回す女性がいつもいます。クリスチャンの女性はそのように振る舞うべきではありません。クリスチャンなら過度にタイトな服や、性欲をかき立てる服を着るべきではありません。これが原則です。しかし実際にどの服装がそう見なされるかは時代と文化によります。パウロはその原則に訴えかけていました。この世的に見えてはいけません。けばけばしくなってはいけません。女性の真の美しさは内からのものです。それは雅歌のようなものです。最もセクシーな女性は真の美しさを持った女性です。体型がどうであれ関係ありません。敬虔な女性は何か内側から発し、夫を惹き付けるものを持っています。
『同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。』テトス 2 章 3 節-5 節
「悪口を言わないように」とあります。男の人は女の人とは違う種類の罪に陥ります。激しい怒りは女性よりも、男性によく見られるものです。女性に関しては悪口が一般的なものです。女性はその種の罪に陥ります。年配の女性は若い女性にそうならないよう教えるべきです。パウロは女性が教えてはならないと言っていますが、女性は他の女性を教えるべきとも言っています。それが聖書の命じていることです。しかし男女混在する教会で女性が教師となろうとするとき問題が発生します。それでは再び第一コリント人への手紙を見てみましょう。
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女性が語ること
『教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うよう
に、服従しなさい。』(1 コリント 14 章 34 節)
これは律法です。しかしこれは正統派ユダヤ教徒たちが今日まで唱えているようなことではありません。彼らは「神よ、私が犬に生まれず、異邦人や女に生れなかったことを感謝します」と言っています。キリスト教は女性を解放した信仰です。キリスト教到来以前のヘレニズム世界の大半と、ユダヤ世界をご存知でしょうか。ペテロが男女お互いに仕え合うことや、女性もキリストにある共同相続人だと教えた時、当時の結婚観を全く打ち砕きました。当時にとってはとても進歩的な教えだったからです。それと同じように聖書は奴隷制に関しても否定的な見方をしています。それも進歩的な考えでした。ともあれパウロは女性に静かにしているよう望みました。そして次のように続けます。
『自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。もしそれを認めないなら、その人は認められません[ =その人を認めてはいけません ]。それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。』(1 コリント 14 章 37 節-40 節)
これは女性が教会で黙り、話してはいけないということでしょうか?いくつかのブレザレンや、ペンテコステ派、ホーリネスを強調する教会はその通りの意味だと言います。ですが私たちはパウロが話していることの全体像を見なければなりません。もちろんこの箇所の言いたいことは女性が完全に黙るということではあり得ません。それではどのような理由でそう言えるかを見て行きましょう。
『しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。』(1 コリント
11 章 5 節)
女性が黙っていなければいけないならば、どのように集会で声に出して祈ったり、預言したりすることができるでしょうか。女性がただ完全に黙り、何も言わないという意味ではないのは明らかです。それがあり得ないのはその直前の箇所で女性が祈り、預言もするとパウロが言っているからです。ではどのようにして祈り、預言をするのでしょうか。頭を覆ってです。女性が何かの奉仕をするとき、彼女の頭は覆われている必要があります。もしその女性がクリスチャンの夫を持たない場合や、独身である場合、頭覆いはクリスチャンの父親または年上の兄弟になります。女性がそのどちらも持っていない場合、頭覆いは教会の男性指導者になります。女性の頭覆いはいつでも保護のためです。女性はただ教会に来てじっと黙って座っているだけではありません。それはパウロが否定しているからです。ですが大切な原則は女性の頭が覆われなければならないということです。ではこれが何を意味するか考えてみましょう。女性は教会で完全に黙っていなければならないという人は使徒の書簡を手紙として読んでいません。包括的に見ずに、ただ一つの箇所だけを取り上げてし
まっています。
『兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。』(1 コリント 14 章 26 節)
パウロはここで御霊の賜物のことを話しています。人々は賜物を持って教会に来ます。主からの教えや言葉などです。パウロは女性が祈ったり、預言をすべきではないと教えていません。彼が教えていることは、女性は自分の夫を通してそのような奉仕をするということなのです。自分の妻が預言を語るなら、彼女だけが責任を負うのではなく、夫である自分も責任を負います。それは夫は妻の覆いだからです。自分の妻が奨励を語るなら、彼女だけが責任を負うのではなく、夫である自分も責任を負います。これがパウロの言わんとしていることです。女性は合同の集会にて自分の権威のみで話すべきではありません。一方で女性は他の女性を教えるべきです。女性の頭が覆われているなら、女性が証を分ち合ったり、預言を語り、声に出して祈り、励ましを与えることに対して、私自身何の問題も感じず、聖書から見て何の問題もありません。私は男女混合の会衆の上に女性が立つべきではないと考えます。ですが女性は他の女性の上に指導者として立つべきだとも考えます。女性の指導者としての賜物は、直接的に他の女性たちに対するものか、自分の夫の覆いのもとで機能すべきです。女性牧師は論外です!女性牧師は間違っており、非聖書的です。ですが、もうひとつの極端、女性の抑圧も間違っています。女性の頭覆いはいつも保護のためにあるためです。
女性はもろい特徴を持っています。ある時、私のことを何かのパワーのように語り、私に触りたがる女性がいました。その姉妹は「あなたが部屋に入って来たとき、御使いがあなたの前を歩くのを見ました」と言ったので、私は「それは良い天使か、悪い天使かどちらだったんだい」と冗談で聞き返すと、彼女はそれを真剣に考え始めていました。女性は感情的にもろく、おかしな事柄に陥りやすい性質を持っています。夫たちがいるのは、女性たちを問題から遠ざけるためでもあります。逆に男性が鈍感であるということは明白です。鈍感であるため敏感に物事を受け取る妻が夫たちには必要です。両者が互いを必要としています。それは男性、女性のどちらが優位かということではなく、役割の違いがあるということ、機能の問題です。それではさらにシオンの娘を幾人か見ていきましょ う。士師記 4 章 8 節から 24 節です。
『バラクは彼女に言った。「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」』(士師記 4 章 8節)
何て腰ぬけな態度でしょう!ですが私も腰ぬけです。これまで私は誰かに反対しなければなら
ない時が多く、妻に共に祈ってくれるよう頼みました。そして彼女が私の意見が間違っていると言う
なら非常に信憑性があります。私が「(誰々のことを)放っておけない、反対する」と言うと、「その人に反対するなら、返り討ちに遭わないことを確めてからにしてくださいね」と妻のパビアは言います。女性は男性の強さでもあります。女性に対する男性の強さとは違いますが、間違えてはいけないのが女性は確実に男性の強さとなることです。
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独身の賜物を持つ人
まず独身の賜物を持たない男性は彼女や妻がいないと、「自分に何か悪いところがあるんじゃないか」と考えます。これは女性も同じです。特に出産適齢期が過ぎてしまうと女性はいらいらしてきます。人はロンドン・バイブルカレッジのことをもじってロンドン・『ブライダル』カレッジと呼びます。女性寮のシャワールームには爪を立てて引きずった跡が必ずあると人は言います。また若い女性が年上の女性より早く結婚したりすると、年上の女性のはらわたは煮えくりかえります。同じことが違った形で男性にも起こります。人がひとりでいるのは良くありません。独身の賜物を持っていれば大丈夫ですが、独身の人は不完全です。独身の賜物が無く、共にいてくれる女性がいない男性は不安感を抱いています。男性も女性も独身であれば完全さを欠いています。それでは多くの誤解がある独身の賜物について見てみましょう。独身の賜物を持つ男性、または女性にはたいてい次の三つのものがあります。次の三つがどれもなければ、独身の賜物を持っているか疑うのに十分な根拠があります。
第一に、男性または女性が独身の賜物を持っているなら、独身であり続けても、男性らしさや、女性らしさに影響はありません。独身の賜物を持っていない男性が長い間自分のシャツにアイロンをかけすぎていると、物腰が柔らかくなり、次第に女性のように文章を書くようになってしまいます。これは女性が薪割りを長い間しすぎて、筋肉隆々になるのと同じです。独身の賜物を持っていれば、男性が独身であっても男らしさが損なわれることはありません。また女性が独身であっても女性らしさを損なうことはありません。その女性はレディーであり、性別をしっかりと持ち、女性らしい魅力があり、他の女性が持っているすべてのものを持ち続けます。これらのものが女性や男性に欠けているなら、その人は独身の賜物を持っていない可能性が限りなく高いです。
第二に、誰かが独身の賜物を持っているなら、大抵の場合に妻や夫が助けではなく、妨げとなるような特別な奉仕に召されているということが言えます。イランに聖書を密輸する奉仕をしているなら、安全に戻って来れるか分からないため、妻や子供が家で待っていたらどうでしょうか?独身の賜物を持つ人は特別な奉仕に召されているために、その賜物を頂きます。パウロのことを考えてみてください。何度も難破するような旅をしているのに、家で家族が待っていては気が気ではありません。
第三に、独身の賜物を持つ人は性的なことに関し平安を持っています。彼らは性的なことで頭
が一杯ではなく、更年期に入ることや子供を持てなくても心配しません。そのような人たちは自分たちの両親が持っていたような家庭生活を持っていなくても気にしません。そのようなことを気に掛けている人は独身の賜物を持っていません。
平安を持てず、特別な奉仕に召されておらず、年を重ねて男性らしさや女性らしさに影響が出るなら、その人は特別な独身の賜物を持ってはいません。ですが、大半の国の大半の教会では、男性ひとりに対して女性がふたりいる状況です。女性は男性より救われやすいものです。このために女性は男性よりも大いに祝福を受けています。独身の賜物を持っているなら失わないようにしましょう。神の創造の時から、結婚は男性と女性の自然な形です。ですが堕落のために迫りくる欲求が他にあります。独身の賜物を持っているならば結婚によって台無しにしないようにしましょう。反対に独身の賜物を持っていないならば、他の人に押し付けられないようにしましょう。親しいクリスチャンの友人で、結婚が叶わなかった人が言いました。「私はひとりだけれども寂しいとは全く思わない」。それでは士師記 4 章を再び見てみましょう。
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デボラとバラクの戦い
『バラクは彼女に言った。「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」そこでデボラは言った。「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクといっしょにケデシュへ行った。』
(男性が責任感を持たない時、何が起こるかがここで分かります)
『バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼といっしょに上った。ケニ人ヘベルは、モーセの義兄弟ホバブの子孫のカインから離れて、ケデシュの近くのツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。』
(樫の木はいつも強さと関連しています)
『一方シセラは、アビノアムの子バラクがタボル山に登った、と知らされたので、シセラは鉄の戦車九百両全部と、自分といっしょにいた民をみな、ハロシェテ・ハゴイムからキション川に呼び集めた。』
(ハロシェテ・ハゴイムは異邦人の鉄または銅という意味)
『そこで、デボラはバラクに言った。「さあ、やりなさい。きょう、主があなたの手にシセラを渡
される。主はあなたの前に出て行かれるではありませんか。」それで、バラクはタボル山から下り、一万人が彼について行った。主がシセラとそのすべての戦車と、すべての陣営の者をバラクの前に剣の刃でかき乱したので、シセラは戦車から飛び降り、徒歩で逃げた。バラ クは戦車と陣営をハロシェテ・ハゴイムに追いつめた。こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された者はひとりもいなかった。しかし、シセラは徒歩でケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げて来た。ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家とは親しかったからである。ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人さま。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕に入ったので、ヤエルは彼に毛布を掛けた。シセラはヤエルに言った。「どうか、水を少し飲ませてください。のどが渇いているから。」ヤエルは乳の皮袋をあけて、彼に飲ませ、また彼をおおった。シセラはまた彼女に言った。「天幕の入口に立っていてください。もしだれかが来て、『ここにだれかいないか』とあなたに尋ねたら、『いない』と言ってください。」だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の鉄のくいを取ると、手に槌を持ってそっと彼のところへ近づき、彼のこめかみに鉄のくいを打ち込んで地に刺し通した。彼は疲れていたので、熟睡していた。こうして彼は死んだ。ちょうどその時、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て、言った。「さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう。」彼がヤエルのところに来ると、そこに、シセラは倒れて死んでおり、そのこめかみには鉄のくいが刺さっていた。こ うして神はその日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを服従させた。それから、イスラエル人の勢力がますますカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを断ち滅ぼした。』(士師記 4 章 8 節-24 節)
以上が事の流れです。先にも見ましたが、男性が権威を持たず、神が女性を用いられる時、神はそれでも女性の覆いを取り去りはしません。バラクは腰ぬけであったかもしれませんが、神はそれでも頭覆い無しでデボラを用いることはありませんでした。彼女がその功績を認められたにせよです。今日も、男性が腰ぬけであるために、神が女性を用いる時、神は権威の順序を破ることはありません。
14 節ではデボラが全軍を励ましました。ですが気を付けてください。女性は正しい助言をすることと、間違った助言をすることのふたつに長けています。時にはひとりの女の人が反対のことを行います。サラを考えてみてください。サラがアブラハムにイシュマエルを作らせました。私の妻でも非常に正しい時もあれば、全く間違っている時もあります。神は確実に妻を通して語られますが、他の女性と同じくいつも感情がひとつの要素となっています。その箇所ではデボラから正しい激励が出ました。
21 節ではヤエルがシセラを殺しました。彼女はただバラクが軍隊とやって来た後にシセラに勝
ちました。ゼカリヤ 12 章には教会の勝利が書かれてあり、イエスさまは教会と共に来られます。主がご自身の軍隊と来られるまで勝利はありません。再建主義や神の国は今という教えはくだらないものです。さてここで 6 節、7 節を見てみましょう。
『あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」』
(士師記 4 章 6 節-7 節)
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すべてはハル・メギドで起こる
これがどこで起こったかというと、タボル山のふもとです。聖書はそこをメギドと呼んでいます。今日もその場所におもむけば遠くにタボル山が見えます。ですが、この戦いが実際に起こった場所、清算の場所はメギドです。ヘブライ語では『ハル・メギド』と言い、『メギドの丘』という意味です。『ハル・メギド』という語は間違って『アルマゲドン』と後に訳されました。それはそうとして、メギドで起こったことは、終わりの日に起ろうとしていることを私たちに教えています。聖書の中で、地理的に同じ場所で起こったことには意味があります。ルツが贖い主と呼ばれるようになった赤子をベツレヘムで生んだのには訳があります。それはイエスさまがベツレヘムで生まれたからです。
それでは黙示録を見てみましょう。
『こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。』(黙示録 16
章 16 節)
これを士師記と見比べてみると、同じ話しです。
『王たちはやって来て、戦った。そのとき、カナンの王たちは、メギドの流れのそばのタナクで戦って、銀の分捕り品を得なかった。天からは、星が下って戦った。その軌道を離れて、シセラと戦った。』(士師記 5 章 19 節-20 節)
また黙示録を見ると、
『さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、』(黙示録 12 章 7 節)
天で起っていることと、地上で起こっていることには関連性があります。ハル・メギドで起こってい
たことは天で起っていたことの写しでした。星々は天使の象徴であり、クリスチャンの象徴です。黙示録で、イエスさまは御手の中に星を持っており、それは御使いたちのことですが、アブラハムの子孫たちは天の星のようになるとも聖書は語っています。ここで士師記 5 章、デボラの歌を見てみましょう。
『農民は絶えた。イスラエルに絶えた。私、デボラが立ち、イスラエルに母として立つまでは。』(士師記 5 章 7 節)
デボラはイスラエルの母のような人物となっています。
『目ざめよ、目ざめよ。デボラ。目ざめよ、目ざめよ。歌声をあげよ。起きよ。バラク。とりこを捕らえて行け。アビノアムの子よ。』(士師記 5 章 12 節)
デボラは勝利の歌を歌いました。24 節では、『女の中で最も祝福されたのはヤエル』とあります。女の中で最も祝福された者…もうみなさん、お気づきでしょうか。敵の頭は砕かれ、マリヤが女の中で祝福された者でした。創世記には女の種が蛇の頭を砕くとあります。ここで象徴が厳密に重なり 合うわけではありませんが、二人の女性には関連があります。この二人が「女の中で祝福された」者と呼ばれました。デボラの歌、そしてマリヤに関してはルカ 1 章 42,48 節にそうあります。もうひとり
は、出エジプト 15 章 20 節から 21 節で歌を歌うモーセの姉ミリヤムです。ミリヤムという名は、イエスの母であるマリヤと同じです。
『アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。ミリヤムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」』(出エジプト 15章 20 節-21 節)
勝利と贖いをもたらしたイエスの母、ミリヤムに起こったことは、もうひとりのミリヤムにも起こりました。彼女は同じこと、勝利と贖いを語りました。そしてヤエルも勝利と贖いをもたらしました。彼らこそがシオンの娘たちです。ヤエルとデボラの歌はマリヤの前兆となっています。ミリヤムの歌もマリヤを象徴しています。これらの女性は神に従う女性を様々な側面から象徴しています。
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最終的なシオンの娘
最終的なシオンの娘は箴言 31 章に描かれています。私たちはこの箇所を一般的に妻に当て
はめますが、ミドラッシュ的にはもうひとつ深いことを語っています。
『しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い。夫の心は彼女を信頼し、彼は「収益」に欠けることがない。彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし、悪いことをしない [夫はイエスであり、花嫁は教会です] 。彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。彼女は商人の舟のように、遠い所から食糧 [霊的な食糧] を運んで来る。彼女は夜明け前に起き、家の者に食事を整え、召使いの女たちに用事を言いつける。彼女は [宣教の『畑』を見るように] 畑をよく調べて、それを手に入れ、自分がかせいで、ぶどう畑を作り、腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう。彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。』
夜になってもともしびが消えなかった人は他に誰がいるでしょうか。マタイ 25 章の賢い乙女と愚かな乙女です。この箇所が妻について語りつつも、同時に教会について語っていることをお気づきになったでしょうか。患難にあっても彼女のともしびには油があります。
『彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる。
[これが忠実な教会です]
彼女は家の者のために雪を恐れない。家の者はみな、あわせの着物を着ているからだ。
[別訳:『緋の着物を着ている』=イザヤ 1 章 18 節に関連]
彼女は自分のための敷き物を作り、彼女の着物は亜麻布と紫色の撚り糸でできている [霊的に] 。夫は町囲みのうちで人々によく知られ、土地の長老たちとともに座に着く。彼女は亜麻布の着物を作って、売り、帯を作って、商人に渡す。彼女は力と気品を身につけ、ほほえみながら後の日を待つ。彼女は口を開いて知恵深く語り、その舌には恵みのおしえがある。
[教会は知恵を求めるべきです]
彼女は家族の様子をよく見張り、怠惰のパンを食べない。
[彼女はなまぬるい教会ではありません]
その子たちは立ち上がって、彼女を幸いな者と言い、夫も彼女をほめたたえて言う。「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている」と。麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。』(箴言 31 章 20 節-31節)
これがイエスさまが求めている汚れの無い花嫁です。もちろんこの箇所は理想的なクリスチャンの妻、また理想的なユダヤ人の妻にも当てはまります。しかしこの箇所は真実のシオンの娘について語っています。教会の性質は男性的ではなく、女性的です。ある面で男性のほうがイエスさまに
共感することができます。それはイエスさまが男性だからです。女性は夫を通してイエスさまを見な
い限り、ある意味で見ることができません。女性は、男性としてのイエスさまに共感できないため、夫たちを通してイエスの愛を見なければなりません。反対に男性がイエスさまを恋人としてみるなら、それはおかしな状態です。それゆえ女性がどのように夫に愛されたいと思っているか、またどのように夫を敬いたいかを見て、男性はイエスさまをどう敬うかを知る必要があります。妻を通して神が見たいと思われているものに夫はなるべきです。同じように妻も自分の夫を通して、神が何を望んでいるかを見るべきです。これは夫と妻がどちらが優れているかという問題ではなく、補い合う関係、役割の問題なのです。
このようなテーマを話す際に、私はいつも警告を付け加えています。もしみなさんが、女性であり独身、または未亡人ならば、どんな状況下であってもイエスを個人的な夫、恋人と見なしてはいけません。イエスさまはいつも集合的な花嫁の夫であり、個人的な花嫁の夫ではありません。女性が感情的に混乱に陥り、イエスを個人的な恋人と見なしてしまったために、悪霊の抑圧を受けるようにまでなった例を私は知っています。修道女が自分のことをキリストの花嫁と言い、最終的な誓いをした後、指輪をはめ、結婚式を行うのはローマ・カトリックの考えです。これは完全に偽りで、非聖書的です。ローマ・カトリック神秘家のアビラの聖テレサという人は、雅歌を性的な読み物として読み、イエスとの情事を空想していました。これは完全に間違っています。イエスの花嫁はいつも集合的なものであり、決して個人的なものではありません。
教会は箴言 31 章の花嫁にならなくてはなりません。そのような妻のために尽くさない男性はひとりとしていません。そのような女性は存在するでしょうか?キリストが戻って来られる時、主が箴言
31 章の女性以外のものを受け入れることはありません。
神の祝福がありますように。