未来の教会史2
ジェイコブ・プラッシュ
ローマ 昔と今
宗教改革の時期に起こったことは、現在ローマ・カトリック系の国々、特に南アメリカで起こっている途方もないリバイバルに比べると比較的穏やかなものでした。サンチアゴやチリでは毎週2万人もの人がローマ・カトリック教会を去り、ペンテコステ派になっています。グアテマラではこの 10 年間で人口の 10%がローマ・カトリック教会を去り、ペンテコステ派になっています。フィリピンとて同じです。アメリカでは、回心したローマ・カトリック教徒の数は驚くべきものです。アイルランドでは、今プロテスタントよりも多くのローマ・カトリック教徒が救われています。イタリヤでは1千を超えるアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会がありますが、小さなものはなく、実際すべての教会が新しいものです。宗教改革があった国々ではアッセンブリーズ・オブ・ゴッドが教派として衰退している一方、カトリック系の国々では躍進しています。私たちはマリアの問題が扇動的なものとなるのを確実に見るでしょう。『偉大なのはエペソ人のアルテミス(ダイアナ)だ』
――使徒 19 章 23 節-34 節
昔のローマ皇帝は崇拝されており、神の民はその崇拝行為を拒んだため殺されました。第二テサロニケ 2 章と、黙示録 13 章はそのことを語っています。ローマでの皇帝崇拝は反キリスト崇拝を前兆するものです。教皇の指輪に口づけをすることや、その他の同じような習慣は皇帝崇拝から由来しています。同じように、終わりの日において反キリスト、その皇帝は同じ有様で崇拝されることを要求します。それを拒否する者たちはその行為のゆえに迫害を受けるのです。
聖書は使徒 5 章 37 節や降誕物語などで、ローマ皇帝が人口調査を行ったことを記しています。聖書中で人口調査がどのように用いられているかを理解したなら、ダビデがイスラエルで人口調査をしたことが(1歴代誌 21 章)、なぜバテシェバとの姦淫の罪より悪かったのかが理解できます。ローマ皇帝たちは人口調査を用いて人口を数え、世界の金融的支配権を得ようとしました。これが反キリストも行うことです。初代教会の時代に行われ、これが終わりにおいても再び行われます。最も悪い皇帝たちは教会に対し大量殺りくを行い、その後にユダヤ人に敵対しました。それは紀元 62 年のネロにおいて始まり、68 年から 70年にはその潮流がユダヤ人に向かうようになり、第二世紀にはディオクレティアヌスやマ
ルクス・アウレリウス、セプティマス・セベリトゥスが教会に敵対し、その後ハドリアヌ
スが紀元 120 年から 132 年までユダヤ人たちに敵対しました。
初代の信者たちは今にも起ころうとしている終末論を信じていました。彼らはイエスが自分たちの生きている間に戻ってくると信じていました。私たちもそのようなことが起こるのを見るでしょう。当時の世界における政治的出来事の全般的な風潮は具体的な終末預言を成就していました。神殿の崩壊や、ローマの炎上に伴う出来事などです――これらの出来事は預言を成就しました。ですが、もう一度言いますが、ユダヤ的な預言はパターンであって、これら同じ預言が将来に再び成就を見るようになるのです。私が言おうとしていることはこれです。使徒の働きを読むとき、私たちはただ初代教会の歴史を読んでいるだけではなく、終わりの時代の教会史をも読んでいるということなのです。イエスに起こったことは使徒に起こり、パウロに起こり、また初代のクリスチャンたちにも起こりました。すべてこれらのことは私たちに起こることを教えています。イエスの最期の日々に起こったことは、再び終わりの時代のキリストの体にも起こります。初代教会におこったことは、終わりの時代の教会にも起こります。使徒の働きは再び繰り返されるのです。ヨハネの福音書の 48 パーセントはイエスの生涯の最後の週を扱っています。受難物語です。四福音書は少なくともその三分の一を、地上でのイエスの生涯最期の日々に起こったことにページを割いています。このように読めば、新約聖書は私たちに関しても同じようにしており、終わりの時代に起こることについてかなりの部分を割いています。イエスさまは裏切られ、十字架にかけられ、そして勝ちを得て復活しました。私たちも同じように裏切られ、十字架にかけられ、勝ちを得て復活します。
欺き 昔と今
初代教会に対してサタンが謀った欺きは、終わりの時代の教会に対してサタンが用いる欺きと同じようなものであると気付くことは重要です。悪魔が初期にキリスト教に持ち込んだ同じ異端の教え、偽りの教理、欺きは終わりの時代において返り咲きます。
初代教会において“低いキリスト論”を信じていた人たち――イエスが神だと信じていなかった人たち――は“アリウス主義者”と呼ばれていました。今日のそれはエホバの証人です。このふたつは本質的に同じです。
初代教会において安息日遵守主義者や食事規定遵守主義者、ノミアン主義者たちは“ユダヤ教化主義者”と呼ばれました(ガラテヤ人への手紙を呼んでください)。今日のそれはセブンスデー・アドベンチストです。
初代教会において超ディスペンセーション主義者たち――ディスペンセーション主義を用いて旧約と新約の間に奇妙な極端さを見出だし、過激で途方もない区分を設ける人たち――は“マルキオン主義者”と呼ばれていました。今日のそれは排他的、またはクローズド(閉鎖的な)・ブラザレンです。
初代教会において御父はイエスで、御子もイエス、御霊もイエスだと主張していた人たちは“サバリアン主義者”また“パトリッパッション主義者”と呼ばれていました。今日のそれは唯一イエスだけだと信じるペンテコステ教会、またユナイテッド・ペンテコステ教会です。日の下に新しいものは一つありません。
しかしながら、これらの嘘やその他のものの中で疑いようもなく、最も危険なのがモンタヌス主義者とグノーシス主義者たちで、両者は互いに関係を持っていました。モンタヌス主義者はすでに成就した終末論を信奉していました。彼らは御国が今だと信じていたのです。彼らは多くのおかしな予測や預言をし、自分たちの首都にリバイバルが来るとか、現在のトルコであるフルギアにイエスがひとりでやって来るなどと教えていました。彼らはあらゆる形の狂気じみた予測をしましたが、人々を誘い込んだ方法はというと、しるしと不思議に過度な強調を置くことによりました。「使徒たちはこれらのことを行い、聖書はそれを教えているんだから、私たちも出来るはずだ」というのが彼らの考えでした。ニケア公会議以前の教会教父であるエイレナイオス(130 頃-202)は、彼らに関して正しい点を擁護しながらも、このような人たちについて批判的に書きました。彼はしるしと不思議、また御霊の賜物が聖書的であると確かに語りました。しかしこの特定のグループは、人々に別の奇妙なことを信じさせるためにそれを用いたのです。このようなことは今日でも同じです。
初代教会において、教会教父のテルトゥリアヌス(160-220)のような――おかしな間違いに引き込まれることを誰も想像しえなかった人が――おかしな間違いに引き込まれました。今日も同じで、私が想像し得なかったような人が、勝利主義や再建主義、支配主義などの同じような“神の国は今”という考えに巻き込まれています。これは同じ方法でなされ、しるしと不思議などに強調点が置かれています。
初代教会の中のこれらの人たちは実現しない非常識な予測を立て、人々を混乱状態に導きました。教会史中のどの転換期においても、この同じ「神の国は今」という神学は表面化しました。モンタヌス主義者たちはローマ帝国が衰退した時に明るみに出始めたのです。
ルネッサンスの時代、この時代はヨーロッパの歴史において非常に重要な転換期だったのですが、モンタヌス主義の教えを信じる信者たちはフィオーレのヨアキム(Joachim of
Fiore 1135-1202 )の信奉者たちと呼ばれました。当時の神の国は今という神学の指導者であったこの男は、今日のヴィンヤード運動のものと似通った信条を持っており、(現代に生きていたなら)ヴィンヤード運動の雑誌に投稿できるような者でした。私たちは彼らのうちに同じ考えを見つけることができます。例えば、三つの時代があると考えられていました。それは父の時代、子の時代、霊の時代といい、父の時代とは旧約聖書のイスラエルの時代で、子の時代とは教会時代で、霊の時代とは後の雨であるとし、自分たちの運動と重ね合わせていました。彼らは自分たちが新しい修道会に属しており、それが他の修道会に対して優勢になると信じていました。これは今日のジョン・ウィンバーに率いられたヴィンヤード運動の中にも見出すことのできる同じ信条です。
宗教改革の期間、ズウィカウ(Zwickau)の預言者たちと呼ばれる人たちが存在しました。さて、もしあなたがブラザレンやペンテコステ派、バプテスト派なら、自分をプロテスタントであると決して考えないでください。もしあなたが宗教改革の時代前後に生きていたなら、プロテスタント教徒からは“アナバプスト”と呼ばれ、カトリック教徒が手を下そうとするのと同じくらい早く彼らに殺されたことでしょう。ツヴィングリは「ならば、お前たちは洗礼をもう一度受けたいのか?」と言い、チューリッヒで氷に穴を開け、信者の洗礼を信じていた者たちを溺死させたのです。ルターやカルヴァン、ツヴィングリなどの信奉者たちはアナバプテストたちを殺しました。聖公会、ルター派、長老派、改革派ならプロテスタント教徒です。ですが、非国教徒である人は全員プロテスタントである訳ではありません。
アナバプテストたちはほとんどの点において、宗教改革者たちよりも聖書に近い者たちでした。プロテスタントたちは福音を再発見したと宣伝して回りましたが、真実の福音を一度も失わなかった人たちが事実存在していたのです。ルターやカルヴァン、ツヴィングリのはるか以前、ヨーロッパ大陸にはヤン・フスやボヘミアのブラザレン、イングランドにはジョン・ウィクリフの信奉者たち、また数世紀にわたってワルドー派が存在しました――これらの者たちはすべて聖書を信じるクリスチャンです。いつの時代でも基本的な真理を理解し、そこから教会が大きく遠ざかっていると知っている者たちが存在しました。
しかしながら宗教改革の時代にあることが起こりました。封建主義は終焉を迎え、資本主義が始まったのです。また神聖ローマ帝国――神聖でもローマでもありませんが――の衰退が起こり、帝国は国民国家に取って代わられることとなりました。人々は「私はイギリス人だ」「ドイツ人だ」、「スコットランド人だ」と言い始めたのです。それゆえ、教皇はクリスチャンたちを滅ぼし、暗黒時代を通してやってきたように福音の宣教を鎮圧するだけの政治的影響力を失っていきました。加えて、グーテンベルクが印刷機を発明したのです。その頃にはもう、修道士が写生していたラテン語版聖書であるウルガタ聖書ではなく、ル
ターが訳したドイツ語聖書や、ティンデールの英語聖書などが普及し、聖書はグーテンベ
ルクの発明によって大量生産が可能になりました。したがって聖書は行き渡り、識字率が上昇し、教皇は政治的に福音の伝播を止める力を失いました。このゆえに、宗教改革が起こったのです。ルターやカルヴァン、ツヴィングリのような人が行ったことはただ、彼ら以前の人たちがいつも言っていたこと、政治的また社会的な環境が整わなければ生きて伝えられないという時代を免れただけなのです。宗教改革者たちが正しい福音を再発見したというのは歴史のひとつの曲解です。
オランダの近く、ドイツのミュンスターを首都とするアナバプテストたちがいました。彼らはズウィカウの預言者たちと呼ばれ、狂気じみた予測や、預言、習慣を行い、御霊の賜物の過度の乱用などを行っていた“預言者たち”に従い、完全な混乱状態へと陥りました。今日、私たちも同じものを経験しています。ただそれはズウィカウの預言者たちではなく、カンザス・シティーの預言者たちですが。ポール・ケインがジョン・ウィンバーと共に公に偽りの予告をした後、これら偽りの預言を目にしていた同じ人たちはまた、主の御名によって偽って預言するこの男の何度も続くパフォーマンスを見に行きました。国教会主教のデイビッド・ピッチャーという人は、『ある者は雷が鳴ったと言った(Some Said it
Thundered)』という本を書き、すべての国教会福音派に向けてこの男に従うよう勧めました。彼らはその通りについて行き、その頃からポール・ケインは、誰にも分からないような数千万人の国民を殺したサダム・フセインという男の元に行き、アメリカとイギリスが
「彼に対して行ったことについて」代表して謝罪し、罪を悔いるようなことをしたのです。
ミドラッシュの適切な使用
神の国は今という神学はいつも歴史の重要な時期に現われました――日の下に新しいものは一つありません。これに関連して、本当に正気ではないものがグノーシス主義です。
アレキサンドリアはユダヤ・キリスト教世界が東洋と接触した場所でした。そこでゾロアスター教の祭司、ユダヤ教ラビ、仏教僧、キリスト教徒たちが思想を交換するために集まりました。キリスト教時代の始まりにおいても、フィロン(Philo)と呼ばれる者のヘレニズム(ギリシア)的な思想がすでにユダヤ教に浸透し始めていました。その思想はアレキサンドリアにいたクリスチャンたち、特にオリゲネス(Origen)――考えようによってはアレキサンドリアのクレメンス(Clement of Alexandria)もですが――確実にオリゲネスによって受け入れられました。これを説明しましょう。
ユダヤ人が聖書を扱った方法であるミドラッシュでは教理を例証し、明らかにするために象徴や予型、寓喩を用いますが、決してそれらの上に教理を据えはしません。最後の晩餐
の象徴としての過越の祭りを例に挙げてみましょう。ユダヤ的な過越の祭り、また過越と
しての最後の晩餐、過越のセデル(儀式的な晩餐)の象徴を理解したなら、他の方法では達しえないくらい深いレベルまで主の晩餐を理解することができます。寓喩や予型、象徴の目的は、教理をより深いレベルまで明らかにすることであり、それを教理の基礎とするのでは決してないのです。
とても簡潔に説明しましょう。紀元 1 世紀にユダヤ人クリスチャンがヨハネの福音書を読んだなら、ヨハネ 1、2、3 章がもちろん、創世記 1、2、3 章のミドラッシュであると言ったことでしょう。そして創世記が創造について語っている一方で、ヨハネ 1、2、3 章が新しい創造について語っていると言ったことでしょう。それゆえ創世記 1、2、3 章とヨハネ 1、
2、3 章はミドラッシュ的な並行箇所なのです。
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神は創世記の創造において歩き、ヨハネの福音書の新しい創造においても地上を歩いていました。創世記の創造では霊が水の上を動いて被造物を生み出し、ヨハネの福音書においても御霊が水の上を動いて新しい創造をもたらしました
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神は創世記の創造において、暗やみと光を分けるためにやって来られ、ヨハネの福音書の新しい創造においても再びそれをなされました
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創世記の創造において、そこには小さな光と大きな光が登場します。新しい創造では“ヨハナン・ハマトビル(Johannan Hamadvil)”――バプテスマのヨハネ(小さな光)と、“イェシュア・ハマシア(Yeshua HaMashiach)”、メシアなるイエス(大きな光)がいます
ミドラッシュ的に、いちじくの木はエデンの園にあったいのちの木の象徴(隠喩)です。そのいのちの木はエデンの園に登場し、ヨハネの福音書においても登場します。従ってミドラッシュ的にみると、イエスさまがナタナエルを「いちじくの木の下で」見た時、ユダヤ的な象徴によってイエスさまはただ「私は文字通りのいちじくの木の下であなたを見た」と言っていただけではなく、もちろんそれも事実ですが、ミドラッシュ的に「私はあなたを創造の時から見ていた。この世の始まりの時からあなたを知っていた」と言っていたのです。これは真実を明らかにしています。聖書は他の箇所で『神は、あらかじめ知っておられる』(ローマ 8 章 29 節)と直接的に語っています。私はカルヴァン主義者ではありませんが、その中には真実があります。ミドラッシュは真理を明らかにするものであって、真理の基礎となるべきものではないのです。
同様に、イエスさまが最後の晩餐で『この杯は、わたしの血による新しい契約です』(1コリント 11 章 25 節)と言われた時に、それは贖いの教理を明らかにする過越の晩餐であって、それが贖いの教理の基礎とはなっていないのです。これがユダヤ的解釈法が寓喩を用
いる方法です。改革者たちが行ったように寓喩を退けてしまうことは完全に間違っていま
す。なぜなら、そうしてしまうと、聖書の中にあるより深い事柄が決して理解できないからです。しかし一方で寓喩の上に教理を据えてしまうことも同じように間違っており、危険なことです。
グノーシス主義
グノーシス主義者たちが行ったことはこれです。彼らは聖書の中の予型や象徴に関して主観的で神秘的な洞察力があると主張し、ギリシア語で霊的な啓示を指すこの“グノーシス”の理解をもって、聖書のそのままの意味を再解釈すると言っていたのです。彼らは自分たちが特別な知識を持っていると主張し、それを他の人が理解できなければ、その人は霊的な欺きの下にあるか、反抗心に陥っているとみなされました。
ローマ・カトリックはグノーシス主義を基礎としています。教皇は間違って自分がペテロの後継者だと主張しています。聖書解釈を正しいものとするためには、まず教会論を正さなければなりません。言い換えれば、彼らは教会の教導権である教皇のみが聖書を解釈できると言っているのです。それゆえ、ルカの福音書 1 章 47 節のそのままの意味が、マリアは救い主が必要だと言ったということであっても、カトリックは答えて「そうです。ですがあなたはグノーシスを持っていないのでしょう。教皇はそれを持っています。なぜなら彼がペテロの後継者だからです。そして彼はマリアが罪無しにみごもられたので、救い主を必要としないと言いました」と主張するのです。
ハシド派(敬虔派)ユダヤ教も同じことです。彼らのラビは“レッベ”と呼ばれ、ユダヤ教のベシュク(Besch)であった、バアル・シェム・トブ(Bal Shem Tov 1698-1760)という者の子孫たちです。彼はユダヤ教グノーシス主義者で幽体離脱などのことに入り込んでいました。ハシド派ユダヤ教徒たちは、誰のレッベがベシュクの真の子孫であるか、誰が本当にベシュクの霊を持っているかということで争い合っています。それはヒンドゥー教から来た輪廻転生のひとつの形です。従って、ハシド派ユダヤ教徒たちにとって神への道はふたつあります。トーラーとレッベ、すなわち義なる者です。レッベはトーラーを通して神に到達します。他の者はそのレッベを通して神のもとに行くのです。トーラーが何を語っているかは重要ではなく、トーラーについてレッベが何と言うかが重要なのです。
同様にカトリックに関しても、新約聖書が何を言っているかが重要ではなく、教皇がそれについてどう語っているかが問題なのです。スーフィズムを信じるイスラム教徒にとってそれはスーフィーであり、シーア派イスラム教徒にとってはイマームです。コーランについてイマームがどう語っているかが大切なのです。ゾロアスター教徒たちにとってそれは
祭司です。ヒンドゥー教徒にとってはブラフマン祭司であり、カースト制度の最高位に位
置するいわば教祖です。彼がヴィシュヌとクリシュナのもとへ行くので、他の人は彼を通して行くのです。シャーマニズムに関してはシャーマンです。チベット仏教徒にとって必要不可欠な人物はダライ・ラマです。これらすべてはグノーシス主義に従います。
従って、これらグノーシス主義の形式にとって本質的な問題になるのが「あなたの教祖は誰ですか。あなたの教皇は。あなたのイマームは。あなたのレッベは。あなたのスーフィーは。あなたのラーマやあなたの祭司、あなたのシャーマンは誰ですか?」ということなのです。再建主義において、これに相当する質問は「あなたの使徒は誰ですか。あなたの預言者は誰ですか?」です。
現代のグノーシス主義
ヨエル 2 章は再建主義の神の子たちの現われ(Manchild/ Manifest Sons of God)の教えの基礎となっています。それではジョン・ウィンバーのヨエル 2 章に関する講解を見てみましょう。ユダヤ的な預言がパターンであったことを思い出してください。それゆえこの箇所は何らかの形で終わりの日に関するものです。しかしながら、この箇所の歴史的文脈はネブカデネザルの侵略について語っています。ヨエル 2 章には
『シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。…
…数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。』(ヨエル 2 章 1 節-3 節)
ジョン・ウィンバー、ポール・ケイン、デイビッド・ピッチャーズ、ジェラルド・コーツら、“ハウスチャーチ”の中で彼らに従う人たちは、勝ち誇る教会がこのようになると語っています。ですがより詳しく見ていきましょう。
『その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。
それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。』(ヨエル 2 章 4 節、7節)
そしてここからこの軍隊はいなごに例えられています(25 節)。再建主義者たちは、勝ち誇る教会がこの食い荒らすいなごになり、すべてを支配すると語っています。しかしここで
20 節を読んでみましょう。
『わたしは北から来るものを、あなたがたから遠ざけ、それを荒廃した砂漠の地へ追いやり、その前衛を東の海に、その後衛を西の海に追いやる。その悪臭が立ち上り、その腐ったにおいが立ち上る。主が大いなることをしたからだ。』(ヨエル書 2
章 20 節)
この軍隊が邪悪であるために神は滅ぼし、裁かれます。それを裁き、滅ぼす方法はネブカデネザルの軍隊に対して行われたのと同じ方法です。これが聖書解釈、また文法的、歴史的、また他のあらゆる見方から分かる文脈です。ですがジョン・ウィンバーはやって来てグノーシスを主張して言います。「いいえ、そういう意味ではありません――これは勝ち誇る教会です」。もしこれが分からないなら、あなたは霊的な欺きに陥っていると烙印を押されるでしょう。またそれに賛成しなければ反キリストの霊を持っていると言って非難されるのです。
この種のことで罪があるもうひとりの人はアンドリュー・シェアマン(Andrew Shearman)という人です。彼は実際グノーシス主義的というよりかは聖書に自分の考えを読み込んでいるのですが。彼はひとつの箇所を取り上げて、福音はヨハネまで宣べ伝えられ、それから人は御国に激しく攻めるように入っていると言っています。彼はその箇所を曲解します
(マタイ 11 章 12 節)。原文のギリシア語の文脈において、ここの“激しく攻めるように”という言葉は“押し入る”という意味です。それは次のような状況に比べられるでしょう。ウェールズのホーリーヘッド(北西端の町)からダブリンに向かうアイルランド海を横断する船に乗っているとして、あなたが救命胴衣を着け、救命ボートに乗り込んだなら、他の乗客はあなたをおかしい人だと思うでしょう。このようなフェリーボートにはパブや、ディスコ、カジノまであります。そのように人が楽しんでいるのに、救命胴衣を着け、救命ボートに乗ったあなたが「航海に快適性と喜びをもたらしてくれる」と言って、それを付け、他の人にも入ってくるように勧めたなら、頭がおかしいんじゃないかと言われることでしょう。ですが突然警笛が鳴り響き、その船が沈み、絶望的な状況にいると分かれば、人は自分の命を救うために救命ボートに押し入り、救命胴衣を着けようとするのです。
律法と預言者はヨハネまでであり、ガラテヤ人への手紙で律法は私たちの養育係と呼ばれています。なぜならそれは私たちが罪定めされており、救いが必要だということを教えるためにあったからです(ガラテヤ 3 章 24 節)。これが本文の意味するところですが、シェアマンは「いいえ、これは勝ち誇る教会のことです。私たちが力強い者たちでその征服を行うのです」と言っています。このようなものは無意味であり、本文が意味するところに近くもありません。本来の文脈においてその本文を読み、そのような愚かな結論に至る人
は誰もいません。ですが、これがこの人の教えることなのです。そしてもしあなたが理解
しなければ、あなたが“霊的な欺きの下にある”と言われるのです。そうです。これも聖書が何を言っているかが重要なのではなく、グノーシスを持った人が何を主張するかが重要なのです。
2種類のグノーシス主義
これが今日のグノーシス主義者たちが行っていることであり、初代教会の中にいたグノーシス主義者たちもまさに行っていたことなのです。初代教会の時代には2種類のグノーシス主義がありました。完全な異教の形をしたものと、バジリ(Basiili)やヴァレンティヌス(Valentinus)のような人々の指導の元に教会に侵入して来た形です。これは現代にも適用できます。2種類のグノーシス主義の形があります。完全な異教の形はニューエイジ運動です。グノーシス主義こそが本当にニューエイジ運動を形作っているものです。それはオカルトの外観などを備えているかもしれませんが、その核心はグノーシス的です。現代の教会に入り込んできているこの種のグノーシス主義は再建主義(Restorationism)です。多くの人気がある教えの中で「可視化のテクニック」などすべてを再建主義者たちは取り込んでいて――ジョイス・ハジェット(Joyce Hugeet)の著書のようなもの――はニューエイジの考え方であり、完全に聖書とは異質のものです。祈りのためのブリージング・エクササイズ(呼吸法)を用いることは、彼女が説明するようにヨガから来ています。彼女はまたイグナチオ・デ・ロヨラの習慣がクリスチャンの祈りの模範として用いられるべきだと主張しています。イグナチオ・デ・ロヨラとはイエズス会の創始者であり、イエズス会は反宗教改革の運動の中にあって福音の拡大を防ぐために作られた修道会です。彼の命令はおそらく 50 万人のクリスチャンを死に至らせ、拷問し、虐殺したことに責任があります。そのような人物です。それでも、彼のシャーマン主義的な習慣は今日の教会の中でクリスチャンの祈りの模範として支持されているのです!このようなものが教会の中に忍び込んでいるニューエイジの考えです。(これは現代、リック・ウォレンとイマージング・チャーチによって広められています)このような欺きに初代教会は直面していました。同じものが戻ってきたのです。
あるものを“アリウス主義”やエホバの証人と呼ぼうと関係ありません。それは同じものです。エホバの証人運動の創始者であるチャールズ・テーゼ・ラッセルと弁護士のラザフォード はグノーシスを持っていると主張していました。彼らに同意しなければ、欺きの下にいる ということになります。ローマ・カトリック=グノーシス主義、シーア派イスラム=グノ ーシス主義、スーフィズム・イスラム=グノーシス主義、ゾロアスター教=グノーシス主 義、ヒンドゥー教=グノーシス主義、シャーマニズム=グノーシス主義です。
重いくびきを置くことやそれと似たような習慣によって人々にもたらされた損害をただ見
てください。この再建主義はあらゆる種類の誤ったものと自然にくっつくものであり、そのひとつが重いくびきを負わせることです。私たちはこのことを別の教えにおいてより深く説明しています。私がここで言っているのはこのようなものが初代教会における欺きであり、また再びこのようなものが現在の欺きとなっているということです。そのグノーシスを持っていると主張する人は自然と重いくびきを負わせるようになります。他にどのような選択肢があるでしょう?しかしながら、イエスさまは天におられる方だけが私たちの教師であると言われました(マタイ 23 章 8 節-10 節)。
神は新しいことをされます。4 人の子供を持つ夫婦が 5 人目を持とうと決めたなら(がんばってください)、神は新しいことをなされます。しかし、5 人目は 4 人が生まれたのと同じ方法で生まれるのです。神が新しいことをされるとき、いつもなされているのと同じ特徴を持ってなされます。グノーシス主義者が言うのは、神は終わりの時代に新しいことをなされるから、すべてが破棄され得るということです。それは真実ですが、神さまがこれまでずっとなさってきた特徴から外れることは決してありません。
妊娠中絶に悪い点はたくさんありますが、私を最も悩ましているひとつの点は、赤ん坊を養子しようとして待っている夫婦たちのリストです。そのリストは 3 マイルにも及んでいるのに、他の人たちは子どもを殺しているのです。望まれていない赤ん坊というものは存在しません。人は赤ん坊を切に望んでいると、障害児であろうが、どんな子どもでも養子にします。しかし他の人たちは子どもを殺しているのです。
夫婦が本当に愛し合っていて、その愛を赤ん坊と分かち合いたいと思っているなら、母親は決して次のようには言いません。「私はお産に耐えられない。私はつわりや陣痛に耐えられない。だから赤ん坊を産むのはやめておきましょう。惨めになるだけだわ」しかし子どもを持ちたいと思っている母親の考えていることは、ただ子どもが乗ったベビーカーを押すことや、公園のブランコに連れて行くこと、動物園に連れて行ってシマウマやお猿さんを見せに行くことだけでしょう。つわりや陣痛はそのような人の頭の中にはありません。そのようなものはただ子どもを持つために経験しなければならないことなのです。
私は女性に生まれなかったことを嬉しく思います。私は子どもが生まれる場所に立ち合い、陣痛の強度と頻度を測るモニターに目を向けていました。そのモニターに変化がある度に私は妻に言っていました。「これが最後の陣痛だよ、これだ!嘘なんて付いてないよ、ベイビー」そう言いながら、嘘を付いていました。英ウィギンのラグビー選手なんて比較になりません。女性はこの世で一番強い生き物です!もしあのラグビー選手たちが子どもを産んだなら、その年は試合に出場できないことでしょう。ランボーさえ無理でしょう。もし
ランボーが妊娠したなら、普通に産むより帝王切開を選ぶことでしょう!
増大する地震
陣痛と地震――特に陣痛は――イエスが来られる直前の教会に何が起こるかを描く、聖書が一般に用いる表現です。陣痛の特徴を考えてみてください。子宮の収縮はより頻繁になり、より激しくなる一方で、時に少しの間弱まります。陣痛は赤ん坊が生まれる直前に頂点を迎えます。同じことが終わりの日にも適用できます。圧力はより激しくなっていきますが、少しの間弱まるでしょう。ですが元に戻り、出産がなされるまでこのパターンは続くのです。これが黙示録の語っていることです。またこれが確実にエレミヤの語っていることです。エレミヤは「産みの苦しみ」について頻繁に触れています。彼は預言者であって、自分の時代、またイエスの初臨について、そして終わりの日について、また時にはほとんど同時にそれらを預言しました。聖書の中で、陣痛について触れられているとき、聖霊は終わりの日の教会に起こることを明らかにしようとされているのです。
第一テサロニケ 5 章はもうひとつの例です。
『人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。』(1 テサロニケ 5 章 3 節)
エレミヤ書を読んでください。陣痛のテーマが登場する時、それは終末的に重要性を持っています。さらに、産科学で登場することは何でも地震学と類似性があります。大地震を引き起こすプレートの大変動が起こる直前は、数多くの小地震が先に起こります。小さな揺れは、最終的な地震が起こるまでより頻繁に、そしてより集中して起こるようになります。アメリカと日本では、地震を予測するため揺れのパターンを識別しようと、天文学的な量のお金が使われています。彼らが確実に理解していることは地震が陣痛と同じ原則をもって起こるということです。地震もまた終わりの日に起こることを私たちに教えています。
地震は増加し、陣痛もひどくなります。その後に赤ん坊は生まれるのです。いったん赤ん坊が取り出されると、産科医や助産婦がその子を母親に手渡します。そのころには陣痛と出産のすべての痛み、苦痛、ごたごたはすぐに忘れてしまっています。大切なのはただ赤ん坊であり、赤ん坊がすべてに勝るのです。女の人の陣痛が 4 週間続いていたとしても(ジョーク)、赤ん坊が生まれるやいなやそんなことは忘れてしまいます。
イエスさまが戻って来られるときも同じようになります。彼が現われるやいなや、すべて
の痛みや苦痛は忘れ去られてしまうのです。私たちもイエスの到来について思いを巡らすべきです。私たちは、とても恐ろしい陣痛を考えるより、子どもの誕生を楽しみに待っている母親のように、イエスの到来に先立つ患難をじっくり考える必要はありません。一方、私たちは終わりの日に患難が来るということを認識しなければなりません。出産過程を逃れることは出来ないと分かっている母親のようにです。
過去と現在の例
マカベア家とアンティオコス・エピファネスに起こったことは、何らかの形で終わりの日にイスラエルと教会にも再び起こります。ダニエル書に書いてあることも再び起こります。マカベア家の時代に起こったことは次のようなことでした。多くのユダヤ人がセレウコス朝に妥協し、ヘレニズムと異教の礼拝(ヘブライ語ではアボダ・ザラー)を許し、それらが神の都、また最終的には神の宮まで達するようになりました。あれほど多くのユダヤ人が妥協することを良しとしなければ、状況はそれほど悪くならなかったでしょう。マカベア家がそれにどう立ちあがったか、また他の者たちが彼らにどう加わったかという事実は反キリストが現われる時に何が起こるかを教えています。アンティオコス・エピファネスはある日突然現れて、神殿で豚をほふり、ゼウスの像を建て、自分を崇拝させたのではありません。そのように将来の荒らす忌むべきものも現われません。そのような状況に至るまで、物事が積み上げられていったのです。ユダヤ人は妥協に妥協を重ね、もはや止められない状況にまである日達してしまったのです。
同じことが今起こっています。英国国教会は幼児洗礼のために赤ん坊に水をたらすことに同意しない者を奉仕者として任命しませんが、イエス・キリストの復活を否定するような者を主教に任命する教会です。そしてそれを福音派も含めた三分の二の主教たちが認めています。カンタベリー大聖堂はインターフェイス礼拝を行う場所となっています。ギリシア語の“ダイモニオン(daimonion)”、ヘブライ語での“シェディーム(shedim)”――他の神々は、申命記や第一コリントで聖書がはっきり語っているように悪魔です(申命記 32 章
17 節、1 コリント 10 章 20 節)。ヒンドゥー教の礼拝がカンタベリー大聖堂で行われています。2 千人の国教会主教たちが取りやめるよう嘆願書に署名をしましたが、福音派の大主教は「すべての宗教を尊敬している」と答えました。これが神の宮の中にある荒らす忌むべきものです。人々はもう取り返しのつかなくなるまで、譲歩に譲歩を重ね、妥協し続けてしまいます。
同じように、反キリストはたった一晩で教会の中で崇拝されるようにはなりません。そのようにはなりません。それはマカベア家の時代と同じ方法で起こり、もはや止められない
状況に至るまで神の民が妥協を繰り返してしまうのです。ダニエル 11 章 33 節から 35 節はこう語っています。
『民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。』
(私たちはこのテーマをクリスマス/ハヌカの説教で取り扱っています)マカベア家に対して起こったことは終わりの日に再び起こります。ダニエル書は繰り返されます。イエスははっきりと、荒らす憎むべきものが建てられたなら、贖いが近づいたと知りなさいと言われました(ルカ 21 章 28 節)。イエスはそうはっきりと語りました。ダニエル書を読むとき、また外典のマカベア書を読むとき、そこで何が起こったかを見てください。そうするとき、あなたは教会に再び起ころうとしている重大なことを読んでいるのです。荒らす憎むべきものは確実にやって来ます。
物質的なことは、より深い霊的なことを反映する
ギリシア語には“教会”や“神殿”を表すさまざまな言葉、“オイコス(oikos)”、“ナオス(naos)”、
“ヒエロン(hieron)”があります。ヘブライ語では“ハ・ヘカル(ha hechal)”、“ベイト・ミシュカン(beit mishkan)”、“ベイト・ミグダシュ(beit migdash)”などです。少なくとも 7 回、新約聖書は教会を神殿と呼んでいます。イエスが亡くなられた時、神殿の幕は天井から床まで裂けました。物質的に見える出来事が確かに神殿で起こったのです。しかしながら、重要なのは神殿の幕が裂けたことではありません。何が問題だったかというとそれが実際に意味していた事柄です。イエスが私たちの罪の代価を支払ったために、罪深い人間はもはや聖い神から離されていないということです(私たちはこのテーマを『神殿の象徴』という説教で扱っています)。昔のブレザレンは神殿の象徴を強調していました。そして多くの根本的な側面において彼らが象徴を強調していたために、昔のブレザレンはそれまでの異邦人教会よりも、初代教会のように聖書をユダヤ的な書物として解釈しようとしたおそらく最も原点に近い教会なのではないでしょうか。彼らは十分な点まで達さなかったかもしれません。多くのことがあったかもしれませんが、ユダヤ的な書物をユダヤ的なものとして読むという点において、彼らは異邦人の教会より近かったと言えるでしょう。
とはいえ、イエスが亡くなられた時、神殿の幕が裂けました。物質的な出来事がより深い霊的なことを反映していたのです。神殿が再建されるなら――私は再建されないと言うのではありませんが。エルサレムでは極秘と言われている多くの発掘が行われています。みながそれを知っていますが――そしてこの像がその中に建てられるなら、それは単により深い
霊的な現実の反映でしかないのです。間違えてはいけません。その反キリストはいわゆる
教会の中で崇拝されるようになり、マカベア家に起こったのと同じ方法でそれが起こります。神の民の継続的な妥協が取り返しのつかない点まで行ってしまいます。
現代の英国国教会を例として見てみましょう。彼らは女性司祭の問題に取り組んでいますが、新約聖書はとてもはっきりとクリスチャンすべてが祭司だと語っています。あなたが祭司でなければ、クリスチャンでもないのです。問題自体が聖書的ではないのに、この女性司祭の叙任という問題を巡って人々は反対して出て行っています。復活やイエスの処女懐胎を主教が否定しているときに、また同性愛が認められているときに、誰か反対して出て行ったのを見たことがあるでしょうか?悪霊がカンタベリー大聖堂で崇拝されているのに反対して誰か出て行ったのを見たことがあるでしょうか?誰もそうはしません。人々は非聖書的なもののために出て行ってしまうのです。そしてその出て行く先はどこなのでしょう?ローマです。それは誰かが英のブライトン(イギリスの一番良いビーチですが、ヨーロッパと比べるとつまらない場所)に休暇を取りに行って、「この場所は汚いな。ブラックプール(さらにつまらないビーチ)に行こう」と言うようなものです。
悪を引き止める
2 テサロニケ 2 章を見てください
『さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。』(2 テサロニケ 2 章 1 節-4 節)
イザヤ書やエゼキエル書で、サタンはバビロンの王のように神として崇拝されることを欲していることが分かります
『私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いて
います。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めて
いるのです。』(2 テサロニケ 2 章 5 節-7 節)
悪を引き止めているものは三つあります。ひとつは人の政府で、神がその目的のために定めたものです。新約聖書は、権威ある者のために祈りなさいとクリスチャンに語っています。初代のクリスチャンたちは皇帝たちのためにまで祈りました。なぜなら、皇帝が神の御霊によって影響を受けないなら、違った霊の影響を受けることを彼らは知っていたからです。私は政治家をあまり好きではありませんが、もちろん彼らのために祈ります。なぜならもし私が祈らないなら彼らは他の影響の下に置かれ、それは私たちに悪をもたらすと知っているからです。反キリストが現われるとき、人の政府は彼の手に渡されます。
このようなことが初代教会でいかに起こったかを理解するために、私たちはカリグラ(治世:紀元 37 年-41 年)などの教会を迫害した皇帝たちを見る必要があります。もうひとつの例は、政府がその手に渡ったときの中世の教皇権です。大患難を他にはない独特なものとしているのは次のことによります。神は歴史を動かす神です。しかし、何らかの方法によって、反キリストは時を変えようとすると聖書は語ります(ダニエル 7 章 25 節)。イエ
スの奉仕と同じ 3 年半という短い期間、歴史の支配権は限られた範囲でサタンの手に渡さ
れます。クリスチャンは、よく歴史の最後の 7 年間が大患難だと間違えて語ってしまっています。聖書はこの期間をダニエルの七十週目、また“ハテクファ・ハ・ツォラト・ヤコーブ(HaTekufa ha Tsorat Yakov)”“ヤコブの苦難の時”と呼んでいます。その期間の後半部分だけが、大患難であると証明することができます。その以前にも患難はありますが、後半部分がよりひどいものとなるのです。教会は大患難を通らないと言うのはひとつのことです。しかし、教会が最後の七年間に入らないという訳ではありません。またその 7 年間が始まった後に取り去られない訳でもありません。
起こってはほしくないことですが、あなたや私が今夜道端で死ぬなら――イエスさまは私たちのためにやって来られます。私たちはいつもイエスさまがいつ来られても良いような人生を生きるべきです。なぜならそうすることが出来るからです。イエスさまが今夜戻って来ようと、今から百万年後に戻って来ようと私たちとの歩みには何ら影響がありません。なぜならどのみち彼はいつでも私たちの元に来られるからです。しかし復活と携挙は、反キリストの素性が忠実な者に明らかにされるまで起こることはありません。「不法の人…が現われなければ…」
したがって、悪を引き止めている最初のもの、人の政府は反キリストの手に渡されます。悪を引き止めている第二のものは、福音を宣べ伝える教会です。
夜に関する隠喩を理解しましょう
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イエスは『だれも働くことのできない夜が来ます』と言いました(ヨハネ 9 章 4
節)
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イエスは『夜中の盗人のように』やって来ます(1 テサロニケ 5 章 2 節)
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イエスが来るのは『夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か』(マルコ 13 章
35 節)
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『夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か』(イザヤ 21 章 11 節)
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十人のおとめは、夜に見ることができるためともしびの中に油を必要としていました(マタイ 25 章 1 節)
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使徒たちは夜に捕えられ、イエスもそうでした(ルカ 22 章 54 節)。これには意味があります
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雅歌の中で花婿は花嫁のもとに夜にやって来ました(雅歌 3 章 1 節-5 節)
マタイ 25 章の賢いおとめと愚かなおとめのたとえは、過越の時期、雅歌がシナゴーグで読まれている同じ時に語られました。雅歌の中での登場人物、花嫁、花婿、合唱している天の万軍がどれであるかはヘブライ語本文の性によって明らかです。この物語は第 3 章と第 5章の花嫁の二つの夢を中心としています。3 章で彼女は花婿が来るのに備えが出来ていました。5 章では準備が出来ていなかったのです。イエスが戻られる時、それは教会にとって最高の夢、もしくはひどい悪夢となります。ユダヤ教の中で過越の月、ニサンの月は贖いの月です。この時期に雅歌がシナゴーグで朗読されており、それが過越においてイエスがマタイ 25 章で説教していたことなのです。賢いおとめと愚かなおとめのたとえは、まさにその週にシナゴーグで朗読されていたことを繰り返したものでした。
夜は聖書の中で最も頻繁に用いられる大患難の隠喩です。イエスが裏切られた時、それは夜でした。覚えているでしょうか。イエスの最後の日々は私たちの終わりの日々のようです。その夜がやって来ます。聖霊は、ヨハネ 16 章 8 節で言われているように、この世に罪を認めさせています。何らかの形で聖霊は悪を引き止め、教会に一致をもたらし、福音を宣べ伝える力を私たちに与えています。神の霊は『永久には人のうちにとどまらない』のです(創世記 6 章 3 節)。一方イエスは『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを
捨てない』と言われました(ヘブル 6 章 3 節)。神の霊はご自分の民の心から離れることは決してありません。聖霊は私たちから取り去られませんが、この世からは取り去られます。黙示録で(ディスペンセーション主義者でなくても)、神は旧約聖書で振る舞われたような状態に戻られています。恵みがある意味で、かつてそうであったように終わるのです。
御霊が内に宿ることと、御霊が降り注がれることの間には区別があります。御霊はヨハネ
20 章 22 節において弟子たちの内に宿られました。イエスは彼らに息を吹きかけて言われま
した、「聖霊を受けなさい」。その時聖霊が彼らの内に宿りました。しかし聖霊は教会に対
してペンテコステの日まで降り注がれず、福音を宣べ伝える力を彼らに与えはしませんでした。聖霊はまたヨハネ 16 章で言われているように世にその誤りを認めさせます。それは終わります。言い換えると、神の霊は神の民だけに備えられるものとなるのです。神は私たちからご自分の霊を決して取り去りませんが、もはや聖霊は世に誤りを認めさせることがなくなり、もはや今行われているようには、世に対して教会が真理を伝える奉仕に力を与えることはなくなります。恵みは終わりに近づき、あわれみはご自身のものである民に限られます。それは神がこの大患難の期間にその焦点をイスラエルとユダヤ人に定められるとしてもです。しかしながら、これは教会が大患難の始まりに取り去られると言いたいのではありません。非常に多くの人が、教会が携挙によって取り去られることと、聖霊が取り去られることを同一視してしまっています。それは間違っています――内に宿られる御霊と降り注がれる御霊があります。
そこには隔たりがあるのです。イエスさまの昇天とペンテコステの日の間には間隔がありました。御霊はその時期にも神の民の内に宿っていましたが、まだ降り注がれておらず、世にその誤りを認めさせることもありませんでした。逆のことが終わりの日に起こります。イエスは天に昇られて、聖霊が降り注がれるように遣わされました。終わりの時には、聖霊が去り、もはや降り注がれなくなり、イエスさまが遣わされます。すなわち、聖霊が取り去られるときと、教会が取り去られるときには隔たりがあるのです。神は私たちからご自分の霊を取り去りませんが、この世からは取り去られます。その期間が大患難です。サタンはもはや引き止められず、教会はそこから救い出されます――私たちは最悪の部分を経験することはないのです。それはヨブ書に言われています
『神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。』(ヨブ 5 章 19 節)
私が大きな確信を持っているのが、教会が取り去られるのは黙示録の第六の封印と第七の封印の間であるということです。
この期間について教えている箇所は聖書の中にいくつかあります。その最初のものは、イエスが使徒たちに息を吹きかけられたときと、ペンテコステの日までの期間です。キリストはよみがえられ、勝利を得られ、神の霊が神の民の内に宿っていました。しかし教会は世と対峙する力を与えられておらず、またこの世の悪を引き止め、この世に誤りを認めさせる聖霊も与えられていませんでした。これが終わりに再び起こることです。神の霊は私たちと共にだけおられるようになります。
私たちは黙示録 2 章に登場するスミルナの教会を理解する必要があります。“スミルナ”はギリシア語の“没薬”から来た名称で、埋葬のとき死体に塗るために使われました。ローマ政府が私たちの宗教を除く、すべての宗教を合法の宗教――レリギオ・リシタ(religio licita)
――と宣言したことは、再び終わりにも起こります。反キリストと同盟を結ぶ政府はすべて他の宗教をレリギオ・リシタとしますが、私たちには敵対してきます。スミルナの教会に起こったことは、終わりの日の教会が経験することについて教えるもう一つの例です。
霊的な欺き
三つ目のものはより複雑です。私たちはエリヤのことを理解しなければなりません。それが文脈の中でひとりの人であれ、何か他のものであれ、そのような問題は今扱うことはできません――私たちはこれに特化した説教を用意しています。しかし、ヤコブの手紙でエリヤは雨を三年半の間止めたとあります。その雨は後半の三年半に止まる聖霊の降り注ぎを象徴しています。ユダヤ人の太陰暦では 1260 日です。ふた時とひと時、それに半時です。エリヤはその期間の間、異邦人の女性を養いました。(これは異邦人教会の象徴です)
ここで第一列王記に書いてある物語を見てみましょう。イゼベルです(これについては『反キリスト』の説教で詳細に扱っています)。聖書には良い女と、悪い女がいます。聖書の中で“良い女”を見つけたなら、それはいつでも神の女性、イスラエルまたは教会について何らかの形で教えています。雅歌でのシュラム人の女、エバ、ラケル、レベカ、サラ、マリア、デボラ、ヤエル、エステルなど――聖書の中の良い女性はすべて何らかの観点からキリストの花嫁について教えています。一方、聖書中の悪い女性は偽りの宗教の霊、サタンの花嫁について教えています。サタンの花嫁は黙示録でイゼベルとして擬人化されています。確実に列王記の女王アタリヤはもうひとつの例です。彼女の行いはネロの母親にそっくりでした。ネロの母親が彼に悪い影響を与え、それが原因のひとつでネロを教会に敵対させた状況は、列王記で女王アタリヤが自分の息子に影響を与えたのと同じものです。聖書中の邪悪な女性のすべては最終的に現われる邪悪な女性について教えています。偽りの宗教の霊です。
箴言を見てみましょう。ミドラッシュ的に読んでいきます。これは箴言の教えは文字通りの淫婦などに関して書いていないと言いたいのではありません。文字通りのことを書いています。しかしミドラッシュにおいて、“ペシェット(peshet)”と“ペシェル(pesher)”には違いがあります。ペシェットとは文字通りの売春行為、また偶像礼拝であり、霊的な欺きはそのペシェルです。これはもちろん、文字通りの売春や姦淫、不品行に関してです。ですがこの女性、この女性たちの特徴は偽りの宗教の霊を描き出しています。とても簡潔に箴言 31 章を見てみましょう。10 節から 31 節にはソロモンの理想的な女性像が描かれて
います。彼女は宣教地に行くように畑に行きます(16 節)。彼女は自分の夫に食事をもてなし、畑をよく調べてそれを買います。また彼女は夫を喜ばせます。18 節では自分の収入がよいのを味わい、彼女のともしびは夜になっても消えることがありません。気付いたでしょうか?これが良い女の人です(これらすべての特徴は教会を象徴しています)。ここで悪い女の人の幾人かを見ていきましょう。
悪い女の子のほうが面白いと誰が言ったのでしょうか?彼女たちは面白くはなく、死をもたらします。箴言 5 章を見てみましょう
『わが子よ。私の知恵に心を留め、』
――注意してください。神の知恵が無い人々は偽りの宗教によって欺かれます――
『これは、分別を守り、あなたのくちびるが知識を保つためだ。他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。』
――油は人に注ぐために用いられる物です。悪魔は油注ぎを真似るのに非常に長けています。どのようにしてそれを行うのでしょう?口先が上手いことと、人当たりの良さです。アメ リカで嘘を宣伝する人たちはとてもじょう舌です。そのような人たちは油注ぎをいんちき と取り代え、人々はその違いに気付かないのです。
『しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、』
給料日の酔っぱらった可哀そうな船乗りを例として挙げてみましょう。パブでのラストオーダーからの帰り、売春婦を見つけ、彼女について行くと、たった 2 週間後にエイズにかかったと分かるようなものです。このような種類の隠喩を聖書はここで使っています。
『しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。』
――これを見てください!悪魔は神の真理を真似出来るのです。(しかし神のことばは両刃の剣よりもするどいとあります)思い出してください。旧約聖書で悪魔は『明けの明星』(イザヤ 14 章 12 節)と呼ばれており、イエスも『輝く明けの明星』(黙示録 22 章 16 節)と呼ばれています。(このテーマには『反キリスト』の説教で立ち入っています)
『その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。その女はいのちの道に心を配らず、その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。子どもらよ。今、私に聞
け。私の言うことばから離れるな。あなたの道を彼女から遠ざけ、その家の門に近
づくな。そうでないと、あなたの尊厳を他人に渡し、あなたの年を残忍な者に渡すだろう。そうでないと、他国人があなたの富で満たされ、あなたの労苦の実は見知らぬ者の家に渡るだろう。』(箴言 5 章 1 節-10 節)
誰が邪悪な女性に自分の力を明け渡したでしょうか?サムソンです。デリラはその邪悪な女性の象徴です。彼女は神の人を誘惑し、彼の力を諦めさせました。彼女がサムソンを崩壊に導いた方法、しかし神が勝利のうちに彼に力を与えられた方法は終わりの時代についてのことを教えています。本当にイエスを愛し、信仰において、神との歩みにおいて誠実な男の人がいるかもしれませんが、意地の悪い女性にくびったけになっている人がいます。これは人に対して起こることです。しかし、これはまた教会に対しても起こること、霊的な欺きです。
私たちはここで偶像礼拝と姦淫の関係を理解する必要があります。イスラエルの夫はヤハウェであるべきでした。ヘブライ語での“夫”は“バアル”といい、“主人”と同じ言葉です。荒らす忌むべきものはアラム語で“シクーツ・ハ・メショメム(shikutz ha meshomem)”と呼ばれています。シクーツという言葉はヘブライ語の“シケッツ”、“ネバネバした爬虫類”または“忌むべきもの”から来ています。サタンは黙示録でふたつの攻撃形態を備えています。蛇と竜です。竜は迫害者であり、蛇は欺く者です。エバがエデンの園で蛇に騙されたやり方は、サタンが教会を騙そうとする同じやり方です。
女性は一般的に男性より霊的な欺きに弱くあります。それは、彼女たちがより敏感で、男性より容易に神さまは女性に語りかけることができるからです。そして神が善のために意図したものは何でも、サタンはねじ曲げて、悪のために用います。神は女性に頭を覆うように教えました。文字通りに覆うのではありませんが、エバが霊的な欺きに弱かったために、女性は保護という観点において男性の権威の下にいる必要があります。その文化では頭にスカーフを巻くことを意味しましたが、原則はどの文化においても真実です。私は、いつも頭を覆っている女性を知っていますが、その人は今まで見たことがないほど口を挟む女性でした。もし彼女の夫が口を開こうものなら、叩かれていました。その女性の頭は結局覆われていなかったのです。
姦淫=偶像礼拝
シケッツという言葉は聖書の中で多く登場します。残念ながら、それはたいてい「あなたの忌むべきもの」と訳されています。「ああ、シオンの娘よ。あなたは淫婦になってしまった。あなたはわたしの聖所を忌むべきもので汚した」その言葉はシケツィームです。これ
は欺く者であるサタンと関係があり、ほとんどいつも言って良いくらいバアル崇拝と結び
付けられています。バアルはもちろん、ヘブライ語の“夫”という意味の言葉です。荒らす忌むべきものは旧約聖書のバビロンの王に見られるように、サタンの神になろうとする欲望を明らかにするでしょう。彼は霊的な欺きによって神の女性を奪おうと試みます。それが荒らす忌むべきものの意味するところです。サタンは霊的な欺きを用いて神の女性を奪おうとします。姦淫と偶像礼拝は相性が良いのです。偶像礼拝は霊的な姦淫と同じです。このためにイスラエルが偶像礼拝の罪に陥ったとき、神は「ああ、シオンの娘よ。あなたは淫婦になってしまった。他の愛人のもとに行ってしまった」と語っているのです。不貞という言葉は偶像礼拝を表現するために使われています。
箴言 7 章
『わが子よ。私のことばを守り、私の命令をあなたのうちにたくわえよ。私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。それをあなたの指に結び、あなたの心の板に書きしるせ。知恵に向かって、「あなたは私の姉妹だ」と言い、悟りを「身内の者」と呼べ。』
終わりの日には、みことばの理解と忠実さは密接に関連するようになります。なぜでしょうか。それは理解を持っていない者が欺きに対して無防備になるからです。
『それは、あなたを他人の妻から守り、ことばのなめらかな見知らぬ女から守るためだ。私が私の家の窓の格子窓から見おろして、わきまえのない者たちを見ていると、若者のうちに、思慮に欠けたひとりの若い者のいるのを認めた。彼は女の家への曲がりかどに近い通りを過ぎ行き、女の家のほうに歩いて行った。それは、たそがれの、日の沈むころ、夜がふける、暗やみのころだった。』
これはいつであると書いていますか?たそがれ時、夜がふけるころです。カル・バ・ホメルを思い出してください。いつも真実なことが、終わりの日には特に真実となります。霊的な欺きはいつもそこら中にありますが、イエスが戻って来られるときに増大するようになります。
『すると、遊女の装いをした心にたくらみのある女が彼を迎えた。この女は騒がしくて、御しにくく、その足は自分の家にとどまらず、あるときは通りに、あるときは市場にあり、あるいは、あちこちの町かどに立って待ち伏せる。この女は彼をつかまえて口づけし、臆面もなく彼に言う。「和解のいけにえをささげて、きょう、私の誓願を果たしました。それで私はあなたに会いに出て来たのです。あなたを捜し
て、やっとあなたを見つけました。私は長いすに敷き物を敷き、あや織りのエジプ
トの亜麻布を敷き、』
エジプトは何の象徴でしたか?この世です
『没薬…で、私の床をにおわせました。』
そこは良い香りがしますが、死の床です。死体に化粧をすると良く見えるかもしれませんが、それでもなお死体の上の化粧なのです
『さあ、私たちは朝になるまで、愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう。』ここで 19 節と 20 節を読んでみましょう
『夫は家にいません。遠くへ旅に出ていますから。金の袋を持って出ました。満月になるまでは帰って来ません」と。』(箴言 7 章 1 節-20 節)
このように彼女はこの男を騙します。気付いたでしょうか。彼女は夫が家にいないことを知っていました。彼女はイエスが長い旅に出て、“満月”に戻って来ることを知っていました。また満月とはどのようなものでしょう?それは月が太陽からの光を最大限に反射しているときです。人は聖書をある時点で理解しなければなりません。暗やみがあっても、そこには太陽の一筋の光があります。しかし、ともしびに油を備えていない人にとって、その時油を買いに行くのは時が既に遅すぎます。私たちは今、油を買うべきなのです。†††