エゼキエル 8 章 9 章
ジェイムズ・ジェイコブ・プラッシュ
エゼキエルとはヘブライ語で、「神の力によって」という意味です。彼の奉仕はまさに、ただ神の力によって実行されたものでした。預言者たちの名前は大抵の場合、神が定めたその人の奉仕の特徴を描き、表現しています。
エゼキエルは、初めイザヤによって預言され、後にエレミヤが預言したバビロン捕囚の到来の直後に登場しました。それは最終的にエゼキエルの時代に始まったのです。民が悔い改めなければ来ると言われていた、その裁きが実際に始まっていたのです。それははっきりと神の裁きとして始まったのですが、人々はそれを神の裁きではないと否定していました。すべてのことが行き詰っていましたが、人々は勝利が来ると主張し続けていたのです。これは今日の状態に似ています。『勢いのある教会(The Unstoppable Church)』(より正確に今の状態を言い表すなら“勢いのあるモスク”ですが)というような本があったりします。彼らの体は実際には重病にかかっているのに、自分の体に対して嘘を付いているようなものなのです。人々は単純に、事実に目を向けたがりません。イザヤやエレミヤが最初から現実に起こると予告していたことを、認めたがらないのです。
エゼキエルは神の裁きは継続し、ますます悪くなると予告しました。その理由は民の罪が継続し、さらに悪くなっていたからです。彼らは神の裁きが来ているのを見ても、悔い改めることをしなかったのです。また、このことは黙示録の中でもほのめかされています。神の裁きが頻繁になり、激しくなってきても、人は心をかたくなにし、神を呪い、罪にとどまったとあります。エゼキエルの時代にもそうであり、終わりの時代にもそうなるのです。エゼキエルは黙示録と深い関連があり、同じことを示しています。
エゼキエル 9 章 4 節『主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」』裁きが始まる前に、神の家、神の町の中で行われている忌みきうべきものを見る人たちがいます。また、神は言われます。「本当に私のものである者たちにしるしをつけよ。間違っていることを見て、何が間違っているかを理解し、嘆いている者にしるしをつけよ。裁きが来る前にしるしをつけるのだ。」
『また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上っ
て来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫ん
で言った。「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」』(黙示録 7 章 2 節-3 節)黙示録 13 章に至っては、獣のしるしに関して書かれており、主の与えられるしるしと獣のしるしは、互いに排他的であるということが分かります。
歴史と考古学によって、エゼキエルで言われているしるしはヘブライ語の「トブ(tov)」という文字であったことが知られています。今日、ヘブライ語のトブという文字は H
に足が付いたような形に書かれます。しかし、捕囚以前のイスラエルでは傾いた十字のように書かれていて、おそらくその原型は直立の十字でした。したがって、エゼキエルの時代の神のしるしは実際に十字架のしるしだったのです。
黙示録 9 章 4 節『そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。』もう一度、神の裁きが来る前に彼の民にはしるしがつけられます。教会は患難に入りますが、その最も酷い状況からは救い出されるのです。しかしながら、その中のある時期は耐え忍び、主にしるしをつけられ、何らかのかたちで守られるのです。終末に登場する 14 万 4 千人の奉仕者たちは、確実に主のしるしを持っています。イスラエルの子孫たちはエジプトにおいて裁きの大半を経験しました。出エジプトで記されている同じ裁きがこの世の終わりに再現されます。そして、それは黙示録で起こることの主な予型なのです。暗闇や水を打つことなどがそうです。ヘブライ人たちはある部分は経験しましたが、最も酷い中からは救い出されました。それと同じことが世の終わりにも起こります。神はご自分の民にしるしをつけるのです。
主のしるしという考えは、もちろん黙示録から始まったことではなく、エゼキエルですらなく、トーラーからであり、出エジプトで言及されています。出エジプト 13 章 9 節『これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい。それは主のおしえがあなたの口にあるためであり、主が力強い御手で、あなたをエジプトから連れ出されたからである。』
エゼキエルに戻ってみましょう。裁きがやって来る前に、忌みきらうべきものとその悪とを見て、嘆く者たちは―その心が真実に神のものとなっている者たちは―十字架のしるしが付けられました。また黙示録では、忌みきらうべきものを見て、嘆く者たちに十字架のしるしがつけられるのです。
エゼキエルの時代にその裁きは始まっていました。捕囚が開始されていたにもかかわらず、
民は「ああ、ただ私たちは一時的に痛手を負っているだけだ。長続きはしない。」と言って
いましたが、実際は、ネブカドネザルはユダヤを 4 回に分けて侵攻し、その度に結果はひどいものとなっていたのです。それはあたかも悪の波が次々と来るように、先にあったものより悪くなるのです。そのように神の裁きは来ます。しかし、神の民はしるしがつけられます。彼らは真実に神のものなのです。
エゼキエルの幻は主に神殿周辺に関してでした。エゼキエル 47 章は千年王国の幻であり、ヘブライ語で「シムカ・ベイト・ハ・ショイバー(Simchat beit Ha Shoyivah)」と呼ばれる神殿の丘で水を注ぎ出す儀式を背景にしています。それはハ・スコット(Ha Succoth)と呼ばれる仮庵祭が祝われていたときでした。ヨハネ 7 章もこのことを示唆していて、その意味はいつも千年王国についてでした。
私はニューエイジ“クリスチャン”であるパトリック・ディクソン(Patrick Dixon)が意識の変化した状態について話しているのを聞きました。彼が言うには、聖書の中でいつも神の臨在が現れるとき、人々は理性を失い、普段とは違った意識に入ると言っていました。これはトロント・ブレッシング(Toronto Blessing)などを受け入れることが出来るという彼の弁護なのです。その例として、彼はペテロがイエスの山で姿が変わったことを取り上げ、彼は幕屋を作りたいという愚かで、おかしなことを考えたと言っています。ディクソンはそれをばかげたことと考えているのです。私は彼に次のことを示し、それは何もばかげたことではないと指摘しました。つまりペテロはその変貌が、ユダヤ人の祭りである仮庵祭のメシアによる成就だと考えていたのです。モーセとエリヤがメシアと共にその姿が変えられたので、何もばかげたことではなく、ペテロはそれが千年王国の到来だと考えたのです。明らかにディクソンはこのことを一度も考えたことがないようでした。その文脈において、ペテロの行為は全く理性的なものだったのです。彼は私に「どうしてそう言えるのか?あなたはそこにいたのか?ペテロと話したことがあるのか?」という質問をもって答えてきました。私はそれに対して、「私は第二神殿期の仮庵祭のメシア的な象徴がどのようであったかを知っている」と言いました。これに対してはディクソンも返す言葉が無かったようでした。このように現代はどうしても、さまざまな毒が大きな釜に入っているような状態なのです。
エゼキエルの神殿:「神殿の象徴(The Typology of the Temple)」のテープでは、ギリシヤ語とヘブライ語において少なくとも七箇所で“神殿”に関する単語、ナオス(naos)、オイコス
(oikos)、ヒエロン(hieron)、べト・ミシュカン(beth mishkan)、ベト・ミグダシュ(beth
migdash)、ハ・ヘカル(Ha Hekal)、これらが色々な箇所で教会の象徴として用いられていることを詳しく教えています。そして例えば、1ペテロ 2 章 5 節では『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。』とあり、コリント人への手紙では教会は神殿
と呼ばれており、エペソ人への手紙の 2 章・4 章では神殿は教会の象徴です。また、使徒の働きではダビデの幕屋を建て直すことが語られていて、それはアモス書の『その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。』(9 章 11 節)という箇所の引用です。新約聖書は少なくとも、これは部分的に異邦人の教会において成就されたと明らかにしています。また、反キリストについてのテープでは、荒らす憎むべき者に関して語っており、ダニエル書で語られた至聖所である聖なる場所に、彼が立つことについてです。このことは歴史の中のいくつかの時点で部分的に成就されました。その最も顕著な例がアンティオコス・エピファネス (Antiochus Epiphanes) によって成就されたときです。またこのことも「ハヌカー
(Hanukah)」のテープに収録されています。
エルサレムに神殿が再建され、憎むべきものがそこに建てられるとしても、それが物理的な神殿に関して起こることですが、それはただ霊的に起ころうとしていることの反映でしかないのです。イエスが十字架上で死んだとき、神殿の幕は上から下に裂けました。このことは罪深い人間と聖い神との隔たりが、もはや無くなったことを示しています。物理的な奇跡はその物理的な神殿で起こりました。しかし、それは一番大切なことではありません。一番大切なことはその奇跡が象徴していることです。私たちの大祭司であるイェシュアが罪のためにささげられたために、人間はもはや神から離れてはいないのです。したがって、荒らす憎むべき者についてもその通りです。憎むべきものが何らかの形で神殿に建て上げられるとしても―私はそれが実際に起こることを確信していますが―それはただ単に霊的に起こることの前兆なのです。反キリストは神の家で礼拝されたがります。このことは反キリストについてのテープで扱われています。そこではアラム語での荒らす憎むべき者について説明しています。
エゼキエルは主の家で忌みきらうべきことを見ました。もう一度、8 章 1 節から始まる 2
章を読んでみましょう:
『第六年の第六の月の五日、私が自分の家にすわっていて、ユダの長老たちも私の前にすわっていたとき、神である主の御手が私の上に下った。私が見ると、火のように見える姿があった。その腰と見える所から下のほうは火で、その腰から上のほうは青銅の輝きのように輝いて見えた。すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪のふさをつかんだ。すると、霊が私を地と天との間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへ携え行き、ねたみを引き起こすねたみの偶像のある、北に面する内庭の門の入口に連れて行った。なんと、そこには、私がかつて谷間で見た姿と同じようなイスラエルの神の栄光があった。その方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、目を上げて北のほうを見よ。」(災いはいつも北からやって来ます)そこで、私が目を上げて北のほうを見ると、北のほうの祭壇の門の入口にねたみの偶像があった。』(8 章 1 節-5 節)
“人の子”とは終末的な称号であり、他のすべての預言者たちと同じく、イエスを何らか
の形で示しています。イエスは終わりの時代に関して神の子とは一度も呼ばれませんでした。彼の再臨について語られているとき、それはいつも人の子がやって来ると書かれています。
『この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか。あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」』(8 章 6 節)
またここにおいても、荒らす憎むべき者が示唆されています。
『それから、この方は私を庭の入口に連れて行った。私が見ると、壁に一つの穴があった。この方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、壁に穴をあけて通り抜けよ。」私が壁に穴をあけて通り抜けると、一つの入口があった。この方は私に仰せられた。「入って行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ。」私が入って行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて――彼は名前をも明らかにします!――、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた』と言っている。」さらに、私に仰せられた。「あなたはなおまた、彼らが行なっている大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」ついでこの方は私を、主の宮の北の門の入口へ連れて行った。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながらすわっていた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。これを見たであろうが、あなたはなおまた、これよりも大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」そして、この方は私を主の宮の内庭に連れて行った。』(8 章 7 節-16 節)
旧約聖書の中では、神の宮を進んで行くにつれてさらに聖い場所に至ります。
『すると、主の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間に二十五人ばかりの人がおり、彼らは主の宮の本堂に背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ。彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしている。だから、わたしも憤って事を行なう。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うこと
を聞かない。」この方は私の耳に大声で叫んで仰せられた。「この町を罰する者たちよ。
おのおの破壊する武器を手に持って近づいて来い。」見ると、六人の男が、おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らは入って来て、青銅の祭壇のそばに立った。』―青銅の祭壇は十字架の象徴です―『そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった。それから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。』(エゼキエル 8 章 16 節-
9 章 5 節)
神はご自分の民に害を及ぼすことを許しませんでした。また、彼はご自分の者にはしるしをつけ、残りの者は打てと命じました。黙示録では、木々に害を加えないように命じられています。―『野の木々もみな、手を打ち鳴らす。』(イザヤ 55 章 1 節-2 節)―木々は神の民を象徴しています。これがエゼキエルでも起こったことなのです。
神はエゼキエルを取り、忌みきらうべきことを次々に見せました。それはますます悪くなるばかりでした。彼が最初に見た忌みきらうべきことに注目してみましょう:ねたみの偶像、主の家での偶像礼拝です。ヘブライ語での「礼拝する」という言葉は「ヒシャタクヴァー(hishtakvya)」といい、不定詞では「ヒスタカヴォート(Histachavot)」すなわち「ひれ伏す」ということです。誰でも像や彫られた偶像の前にひれ伏し、拝むならそれは偶像礼拝です。ハイ・カトリックやローマ・カトリック、これらのものは偶像礼拝です。
この話は次のように始まりました。神はエゼキエルを天と地の間に持ち上げて、「見よ。今あなたは天から、わたしが見るように見ている。彼らがわたしの家、わが聖所、会見の場所でしていることを見たか。」と言いました。エゼキエルはそれを見て、驚きました。しかし、神はエゼキエルに「これがわたしの家、わが聖所での偶像礼拝である。しかし、人の子よ、あなたはさらに忌みきらうべきものを見ることとなる。」と言われます。その後神は神殿の中へとさらに奥へと彼を導かれます。そこでは、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていたのです。ここでの
「忌むべき」とはヘブライ語で「シェケツィム(shektzim)」というもので、異邦人女性を軽蔑した言い方の「シクセー(shikseh)」という言葉はこれから来ています。黙示録において、サタンにはふたつの攻撃する形態があると、私が言っているのを聞いたことがあるでしょうか。蛇と竜です。竜は迫害者としてのサタンです。また、蛇とは欺くものとしてのサタンです。これらのはうものも「シェケツィム」と呼ばれ、それは「ねばねばした爬虫類」
という意味です。それらは古代中近東で行われていたヘビ崇拝などから来た悪魔の象徴で
すが、インドの西部に至るまでヘビ崇拝が行われています。荒らす忌むべき者はそこから取られたものです。主の家の中にいる悪霊:この時点でただの偶像礼拝が、明らかな悪霊崇拝になっていくのです。
しかし、神はそれからエゼキエルに言われます。「あなたはさらに悪いものを見ることになる。わたしの家でさらに忌みきらうべきものを見るのだ、人の子よ!」そして神は宗教指導者たち―レビ人やコヘニム(cohenim)などの“牧者たち”―をあちらこちらで名指しで呼びます。また彼はシャファンの子ヤアザヌヤが彼らの内に立っていたと書いています。そこにいるべきではない人々、いるはずのない人々が香を持ってそこにいるのです。香は聖徒の祈りを象徴しています。しかし、それらの祈りは本当の神にはささげられていないのです。彼らは真実の神を礼拝していません。パウロは1テモテ・2テモテにおいて、ヨハネは3ヨハネにおいて、信者たちを過ちに引き込もうとする指導者たちの名前を公に挙げました。使徒と預言者たちはためらうことなく、そのような者たちの名を明らかにしたのです。
このエゼキエルの箇所において、偶像礼拝が行われており、明らかな悪魔崇拝があり、また神の指導者たちが民をそこに引き込んでいました。神は主の家でそのように指導者たちが悪事に加担することは、何にも増してひどく忌みきらうべきことであると宣言しています。
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』その次に神がエゼキエルに見せられたのはタンムズ礼拝でした。タンムズは乳飲み子の神であり、彼の母であるマドンナに抱きかかえられていました。ローマ・カトリックのマドンナと子どもという考えは、タンムズ礼拝をカトリック化したものです。そうでしかありません。エレミヤ 44 章では、女たちが天の女王のためにパン菓子を焼いている光景に出くわします。これはカトリックのマリア崇拝と同じものです。タンムズに関して言うと、イエスは無力な幼児として描かれ、一方でその母は力のある独立した大人として表現されています。このような考えのもと、マリアが私たちの共通の贖い主であり、共通の仲介者であり、共通の救い主であるとカトリックは主張しているのです。彼女は今まで存在した女性の中で最も偉大であることは事実です。しかし、彼女自身、救い主が必要であると言いました。
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』そう神はエゼキエルに言いました。
『人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。』まず、それはねたみの偶像であり、
次に悪霊でした。その次に指導者たちが手をつけたものとは―より知識があるべき者たち
が民を迷わせます―タンムズ礼拝でした。この次には何が来るのでしょうか?
『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』神はエゼキエルを玄関と祭壇の間にある内庭に連れて行きました。そこで彼が見たものは公然と太陽を拝む者たちでした―公然と他の神々に祈っていたのです。これらのバビロンの宗教は単なる礼拝以上のもの、不品行などをも含んでいます。不品行と偶像礼拝は共に起こります。古代ギリシヤではそれは神殿娼婦でしたが、その起源はギリシヤ以前にさかのぼります。礼拝の中での性の堕落です。サタン崇拝にかかわりを持つすべての成人式は、何らかの性的な儀式を含んでいます。ロザラム(Rotherham)にいる、私の知っているクリスチャン女性の娘は、サタン的なカルトに参加していました。そこで大祭司がサタンと関わり持たせるため、彼女を“結婚”させたのです。儀式のすべてが性的で汚らわしいことで満ちていました。この女性は当然のことながらとても動揺していました。
状況はますます悪化していきます。民はそれを無視していましたが、イザヤやエレミヤが来ると、初めから警告していた神の裁きが実現していたのです。彼らは来るべき裁きを否定し、罪にとどまっていました。その一方で、指導者たちはそこに立ち、「もはや主はこれらのことを、本当には気遣っておられない。すべてはゲームなのだ。ただこれは私たちの仕事なのだから。」と言います。聖職者の中の多くのフルタイムの奉仕者たちが―彼らの中には福音派もいますが―奉仕がただの職業にすぎなくなっているのです。奉仕は仕事になっていて、召命でもなく、情熱をもってするものでもなく、神が天職として与えたものではなくなっているのです。ただ彼らの義務になってしまっています。
最終的に神は言われます、「真実にわたしのものである者たちにしるしをつけよ」。もはや望みはなくなりました。神はそのようなことを見て嘆いている者以外、あわれむことも惜しむこともなくなるのです。神はエゼキエルを天にまで上げて「わたしの聖所を見よ」そう言われると、彼は衝撃を受けました。また、神は「またそこにはあなたが見たものを見、ひどく驚いた者たちがいて、彼らはわたしの家で忌みきらうべきことが行われているのを見て嘆いているのだ。その偶像礼拝、不品行、また彼らの指導者たち自身が民を引き込んでいるのを嘆いている。これらの者たちにはしるしがつけられる。しかし、わが裁きは下ろうとしている。さらにあなたは忌みきらうべきことを見ることになるだろう」と言われ、
「人の子よ。あなたは彼らが行っていることを見たか。忌みきらうべきことをさらに見る
ことになる」と主は言われます。
白魔術を行う者が歴史上初めて、イギリスの大学で多神教のチャプレンになりました。「スーザン・ラドーン(Susan Ladourne)がリーズ大学で、オカルトを信じた生徒をカウンセリ
ングするために職務を引き継いだ。29 歳の魔術師は、魔術や多神教の儀式や礼拝をもって、生徒を指導する。」 しかし、これよりもさらに忌みきらうべきことを、私たちは見ます。一体どのようなものなのでしょうか?祭司たち―知識を持ち合わせているはずの者―が不品行に身をまかせ、魔術を受け入れているのです。いいですか、国教会のチャプレンであるサイモン・ロビンソン牧師(Rev. Simon Robinson)は魔術師にも果たすべき役割があるとしてそれを受け入れ、次のように言いました「私たちはすでにさまざまな宗教からチャプレンを採用している」。祭司たちは忌みきらうべきことや偶像礼拝が行われている中、香を持ち立っていました。彼らは「大丈夫、神は見てはいない」と言うのです。これがまさにエゼキエル書において起こっていたことです。「神は見てはいない」とコヘニムは言い、同じ事をレビ人も言いました。また、これはイギリス国教会の聖職者が今日言っていることなのです。
「あなたはなおまた、わたしの家で大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」と主は言われます。ヨークシャー・イブニング・ポスト(Yorkshire Evening Post)によると「一緒に住むことはもはや罪ではない―イギリス国教会は家族の価値観について姿勢を一変した」そうなのです。私は罪の中に生きていました。イエスが私の心の中に入ってきたとき、私はニューヨークに住んでいて、向かいの通りにいた、とても魅力的なアメリカ系イタリア人の女性と暮らしていました。そのとき、私は残りの薬物を取り、窓から 20 階下に投げ捨てました(それをガーナへ行く大使が拾って、自分のものにしたと思います)。そしてジューズ・フォー・ジーザス(Jews for Jesus)の当時リーダーだったサム・メードラー(Sam Madler)が私に言いました。「あなたは結婚するか、そこから出ていくかしなければならない。たとえ、あなたたちが一緒に寝ていないとしても、罪があるように見え、あなたの証を台無しにすることになる。」そこで私は彼女をキリストに導きました。よい証と信仰を保とうとして私は唯一の選択肢を選びました。つまり彼女に出ていくように告げたのです。
ここで言いたいのは、私がしていたことが間違っていると言われて、クリスチャンとしてそのままやっていけなかったということです。『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。』(ヘブル 13 章 4 節)―もう彼女とはベッドを共にしないとしても、それは罪のように見えると言われたのです。証をし続けてきた私の隣人たちは、彼女と寝ていないということを信じはしなかったでしょう。しかし現在、イギリス国教会は一緒に住むことはもはや罪ではないと言っているのです。私は福音主義カリスマ派であると聞いていた、ジョージ・カーレイ(George Carey)大監督の、公式のイギリスの住所であるランバート官邸に電話をかけました。私は電話をし、かけ返してくれるようメッセージを残しました。彼らは私が何を望んでいるのか知りたがっていたので、『結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。』という新約聖書の箇所があるのに、どうやって結婚せずに寝床を聖く保てるのかと大監督に聞きました。それからという
もの返事は一切来ていません。
「あなたはなおまた、わたしの家で大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」と主は言われます。ギリシヤ語の「デモノイ(demonoi)」とヘブライ語の「シェディム(shedim)」は、
1 コリントと申命記で使われていて、他の神々や悪霊たちのことを述べています。旧約と新約はどちらもそれを告げています。エゼキエルははうものや悪霊などのシェディムが、神の聖所、主の家で崇められているのを見ました。カンタベリー大聖堂に行き、自分自身の目で異教徒の間でなされている礼拝を見てください。アンセルム・チャペル(Anselm
Chapel)に行き、仏教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教徒などの礼拝で溢れていて、“クリスチャン”たちがそれを受け入れているのを見てください。『あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。』